ドルマバフチェのミュエッズィン、宗務庁に訴訟―ゲズィ騒動で見たこと
2014年11月22日付 Hurriyet 紙


ゲズィ公園の運動の際、デモ隊が避難したドルマバフチェのベズィミ・アーレム・ヴァーリデ・スルタン・モスクの当時のミュエッズィン(礼拝時刻告知係)フアト・ユルドゥルム氏は、別のモスクへの異動決定取り消しを求めて裁判を起こし、(当時の)出来事について「警察がガスを噴射するとデモ隊は集団でモスクに入り始めた。夕刻にはデモ隊の数は5万人に達した。人々は興奮状態にあった。まるでちょっとしたこの世の終わりの日のようだった。状況は絶望的だった。私は1日中警察に助けを求めた。しかし全く成果を得ることはできなかった」と説明した。

イスタンブル第4行政裁判所で行われた裁判の法廷審問には、原告フアト・ユルドゥルム氏とアリ・ティズィク弁護士、被告である宗務庁の弁護人が出席した。

フアト・ユルドゥルム氏は、訴状の表現をくり返し、異動決定の取り消しを求めた。宗務庁の弁護人も決定が合法であると主張し、裁判の取り下げを要求した。イスタンブル第4行政裁判所が判決を1ヶ月以内に明らかにすることが待たれている。

■「扉を蹴り、鍵を破壊した」

ミュエッズィン・ユルドゥルムはアリ・ティズィク弁護人によって2014年3月21日にイスタンブル第4行政裁判所に提出した訴状で、ゲズィ公園事件が始まった2013年5月31日の夕方、警察がガスを噴射し、デモ隊の一部が壁を押してモスクの庭に入り、一部はモスク内に入ったことを明らかにし、外に出ていたグループは扉を蹴り鍵を破壊したと述べた。

■「デモ隊はモスクの方に追い払われた」

ユルドゥルム氏は、グループがジェマートと対立しないようにするため、0時30分にモスク外に出されたと述べ、助けを求めたにも関わらず警察の協力を得られなかったようにデモ隊がモスクに向けて追い払われたと続けた。

■「朝までガスを受けた」

ユルドゥルム氏は、デモ隊が小規模なグループになって朝までモスクの前でスローガンを叫び、そのため彼らは朝までガスを受け、行政側からはだれも事件に介入しなかったと主張し、次のように説明した。
「翌日、周辺の郡から来た人々は、ドルマバフチェ広場で会合を始めた。モスクには私1人で、抗ったものの行政には届かなかった。警察がガスを噴射するとデモ隊は集団になってモスクに立ち入り始めた。夕方にはデモ隊の数は5万人を数えた。モスクからほんの500メートル前でデモ隊は警察のバスに火を着けた。消防車は現場に近づかなかった。人々は興奮状態にあった。まるでちょっとしたこの世の終わりの日のようだった。状況は絶望的だった。私は1日中警察に助けを求めた。しかしまったく成果は得られなかった。6月2日になっても事件は続いた。日曜日(1日)には許可があるにも関わらず私は夜半モスクに戻った。モスクはけが人でいっぱいだった。人々は靴でモスク内を歩き回っていた。皆羽目を外した様子で、騒動と混乱の中にあった。まったく抵抗できなかった。彼らを刺激してリンチを受ける可能性があったからだ。モスクには絶え間なく怪我人が運び込まれており、その場の医師によって治療が行われていた。モスク内に入ったデモ隊の多くは外でアルコールを摂取したようで、酔っ払っており何をすればいいのかわかっていないようだった。時間の経過に伴い事件は拡大していった。刺激と妨害工作が行われる状況はとても整っていた。催涙ガスによって私たちは目を開けることができなかった。」

■「マイクでデモ隊に呼びかけた、『マドマク・ホテル事件と化してしまう』と」

フアト・ユルドゥルム氏は、モスクが燃やされ、人々が互いに殺し合い、周辺に被害を及ぼすことにならないようにするため、マイクでデモ隊に呼びかけたと述べ、彼らに火炎瓶が投げられればモスクが燃え、けが人に被害が出、モスクがスィヴァスのマドマク・ホテル事件と化しうると述べたことを引用した。

■「辺りは地獄のようだった」

ユルドゥルム氏は、「モスクの約3万人のデモ隊はパニックの中にあった。外に残ったデモ隊は怒り狂ってモスクの窓や扉を蹴り始めた。前に出るものは何であろうと破壊していた。辺りはまるで地獄のようだった。断じてあってはならないが、火炎瓶や手榴弾が投げられることがあれば人道的にも国としても終わりだっただろう。この美しい国がまるで内戦の只中にあるようだった」と述べた。

■「窓の前には潰れたビール缶、マフフィルには半分になったタバコの箱」

ユルドゥルム氏は、外に出て警察署長と話した後、デモ隊を外に出すことが出来たと述べ、モスクが血と薬で埋め尽くされ、内側では窓の前に潰れたビールの缶が、ミュエッズィンのマフフィル(上階)には半分に減ったタバコの箱が残されたと述べた。

■「三日三晩1人で闘った」

ユルドゥルム氏は、三日三晩1人で闘い、大きな危機を抑えたと強調し、「3日間のこの闘いの間、あらゆる責任者や私を手助けしてくれる役人の友を探したにも関わらず、誰にも出会えなかった。出会えたとしても何の成果も得られなかった」と述べた。

■「警察にモスクでの飲酒は目撃していないと言った」

ユルドゥルム氏は、モスクに現場検証チームは訪れず、国家宮殿局の職員がムフティの許可によってモスクで写真を撮影し、一部の報道関係者もモスクに入ったと主張し、モスク内で飲酒が行われたか否かという問題についてメディアでインタビューもルポも発言も行っておらず、警察の言うこれに関する問いに対しては見ていないと述べたと説明した。

■「感謝されると思っていたら左遷された」

ユルドゥルム氏は、宗務庁が調査官2名を任命し15日間の調査を行ったと述べ、2ヶ月後報告書がメディアにリークされたと主張した。ユルドゥルム氏は、報告書の方向で勤務地が変更されていたことに非常に驚き、感謝と称賛を待っていたのに左遷されたことを非常に傷ついたと述べた。
ミュエッズィン・フアト・ユルドゥルムが行政裁判所に異議申立てを行うと述べると、2度目の聴取が行われ、自宅から90キロメートル離れたカヤシェヒルのハズレティ・ヒュセイン・モスクに任命され、妻が白血病であることが報道されると一時的にカラキョイのアラブ・モスクに任命されたと述べた。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:35935 )