宗務長官メッセージ「1200万人の死を放置し12人の死を悼む、この矛盾」
2015年01月13日付 Radikal 紙
ギョルメズ宗務長官は、パリ虐殺に示された感受性がムスリムには示されていないと指摘し、「1,200万人が虐殺されたことに声をあげなかったひとびとがわずか12人に対する殺人を理由に立ち上がったことを教訓として注視している」と述べた。
ギョルメズ宗務長官は、「一方、この10年間にイスラーム地域では苦しみにもだえた1,200万の人びとが虐殺され、ないことにされた。しかし、先週パリで、またいかなる形においても(イスラームの)信仰者でなく、常識的とは思えない12人が無残に殺害された。1,200万人が虐殺されたことには、声をあげなかったひとびとがわずか12人に対しおこなわれた殺人を理由に立ち上がったことを教訓として注視している」と述べた。
ギョルメズ宗務長官は、第30回県ムフティ協議会議について、6ヶ月前にマルディンで次回の会議をバルカン半島での実施することを求めたが、それは実現しなかったと話した。同長官は、同会議をバルカン半島の入り口であるエディルネで開催したとし、同地域(バルカン半島)から会議に出席している宗教関係者を通じてバルカン半島に暮らす人々に挨拶を送り、以下のように話した。
■「イスラームによれば、すべての命は価値がある」
「ブルガリア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロで、コソボで、ボスニアで暮らしているムスリムのきょうだいたちに向け、一斉にもっとも心のこもった挨拶をおくります。あの鉄のカーテンが閉じられ、共産主義(体制)があった頃、時々こっそりと国境に来て[エディルネにある]セリミイェ・モスクのミナレットを見ていたあのすべての年長者の人びとに偉大なアッラーからの慈悲があることを願っています」。
ギョルメズ宗務長官は近年のイスラームフォビアの高まりに注意を向けた。イスラームによれば、すべての命には価値があり、すべての罪なき人びとが絶滅させられることは、全人類を絶滅させることと同じであると強調し、以下のように続けた。
「一人の死は、人類の死です。コーランの説明によれば、死を区別することは人としてふさわしくありません。虐殺されたものの中で区別することは人間的ではありません。暴力とテロが世俗的基準に依拠することと、いわゆる宗教的基準に基づくことの間に差別を設けることは正しくありません。残虐な死は、ダマスカス、バグダードで起きようと、パリで起きようと、違いはありません。非道な虐殺が、カラチやイエメンで起きていることと、ベルリン、ロンドン、ワシントンで起きることととの間に違いはないのです。
■「10年間に1,200万人が殺りくされた」
もし、世界がこれらの死者全員に対する虐殺のすべてに対し、信条、地理的差別をせず同じ反応を示さないのであれば、そのとき、人類は完全に滅ぶ運命にあります。最近、この状況に心を痛めて暮らしている、という教訓をもって現代世界を眺めています。一方、この10年間にイスラーム地域では苦しみにもだえた1,200万の人びとが虐殺され、ないことにされた。しかし、先週パリで、またいかなる形においても(イスラームの)信仰者でなく、常識的と思えない12人が無残に殺害された。しかし、1,200万人が虐殺されたことには、声をあげなかった人びとがわずか12人に対しおこなわれた殺人を理由に立ち上がったことを教訓として注視している」。
■「人類は、一刻も早く我に」
ギョルメズ宗務長官は、人類はできるだけ早く我に返る必要があると強調した。同長官は、世界の人びとが、テロ、暴力、残忍さについて、殺害されたもの出自や出身地に応じて反応するのであれば、これらの死者への救済案を見つけることは、残念ながらできないないと語り、以下のように続けた。
「先週起きた(事件による)死者全員から人間の良心にもとづく教訓を引き出す必要があります。全世界で起きている苦しみと不安については、慈悲、正義、公正をもって臨まなければならない。そうしてこそ初めて、住みやすい世界を構築することができます。植民地化、占領、攻撃に直面する物理的な拷問と、大きなトラウマを経験するムスリムの神聖なるものを軽蔑した精神的な拷問は、狂気にそれぞれ招くものです。痛みにもだえたイスラーム地域で、まず狂気の状態をつくり、その後も神聖なるものを軽蔑して狂気を招来することは、人として、現代世界としてふさわしくありません。これらのことが表現の自由の名の下で行われることは承認できません」。
ギョルメズ宗務長官は、テロと残酷さを非難する立場にいることがムスリムの最も重要な義務であると指摘し、「今一度、私は全人類の良心に訴えたい。 暴力は暴力によって解消されず、血は血で浄化されず、世界の安全は信仰への圧力によって達成されない。安全と自由は決してどちらかを選択できるようなものではない」と話した。
■「イスラムフォビアは暴力化した」
ギョルメズ宗務長官は、イスラムフォビアが今後数年間、より議論されるだろうと付け加えた。イスラムフォビアという言葉を9.11事件以降に初めてオランダ首相が使い、その後に頻繁に聞かれ始められたと指摘し、以下のように続けた。
「時代の中でイスラムフォビアは、全世界を包み、恐怖の段階を越えて、まず憎悪と敵意へ、その後、暴力へと化した。2014年に起きたモスクへの攻撃、モスクに書かれた人種差別主義者の落書き、モスクに豚の頭を吊るす、などといったヘイト・クライムは、ヨーロッパで働いている私たちの同僚たちがモスクへ実施されたことを集めただけでも、大半を成していると明らかにしておこう。調査によれば、ヨーロッパで暮らしている3人に1人がこれに怯えていることを示しています。もちろん、 このことを、私たちムスリムが大いに自己批判をして、自分たちのこと、イスラーム地域のことと考えて取り上げる必要がある。」
ギョルメズ宗務長官は、ムスリムのためにイスラームの慈悲のメッセージを人びとに広めることと、責任ある信徒集団のために、3人に1人ではなくたった一人の人物の心に創造者が地上へ慈悲として送ったイスラームが恐怖と憎悪として定着することは、最大の問題であり、心を痛ませる必要があると強調した。同長官は、この憎悪と恐怖を心からどのように[外へ]運び出すべきかという問題について、熟考する必要があると指摘した。
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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:36531 )