昨日、テヘランは曇り空、旧国会議事堂の内部、もう座る者もいなくなった赤い革張りの椅子に150人の高校生が座り、宣誓式を開催した。これにより、彼らは学生議会の議員となった。
7回目になる今回、彼らは宣誓を行い、飽くなき探求心を活用して事態を打開するための妙案を提示するため、自身の最大限の力を振り絞り、社会の発展に向かって踏む出すことを神に誓って同世代の仲間たちに約束する。
この学生たちの議会は一見、魅力的に映る。民主主義樹立の明白な証拠であり、社会の全階層を国事に参加させるための一つの事例である。しかしその美しい装いの下は、名前しかなく、単なる象徴で形式上の集まりにすぎない。
6立法期にわたる学生議会の活動は、各2年の任期であった。次のような結論に達するには頃合いであろう。これまでの全立法期の学生議会議員の存在は、学生自身さえ認識していない、ましてや一般の人々などなおさらだ。
規定に基づいているといえど、2年間の立法期中にこの議会は、たったの4回しか会議を開かない。これでは、なんらかの影響を与えるには無理がある。加えて、このような限られた会議数においてさえも、少なくとも教育に関する英断にチャレンジするような議会らしい動きも見られない。
ここ2、3年で国の教育制度は、いくつかの決定により激変した。しかし学生議会は、ただひたすら沈黙し、反応するわけでもなく、声明を出すわけでもなかった。
昨日、教育省の教育局長であるハミッドレザー・キャッファーシュ氏が、この議会に対する賞賛を口にし、この集団において承認された重要な文書の名前をいくつか挙げたことは取りあえずおいておこう。この議会に期待されていることは、文書整理をすることではなく、スローガンを繰り返すことや国家における一般的な問題を追究することではない。教育制度の問題を見極めることである。議会の場にそれらの問題を開示し、学生たちの意識調査を行い、最終的に問題解決のための提案を行うことである。これらすべてがこの議会に欠けているのである。
昨日、学生たちの就任式に出席された教育相も、大変ソフトな口調で暗に含めて学生議会が期待されているようにはなっていないことに触れた。
この要求は、教育相だけが求めているものではない。すべての教育関係者が期待し、彼らが国会議員たちの意思を引き継ぎ、いつかの日か彼らが寄りかかっている椅子に座って、教育制度と学生たちの社会共同体に存在する問題中の問題を明らかにするよう求めているのだ。
(社会部:マルヤム・ハッバーズ)
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( 翻訳者:8411056 )
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