イスタンブルの伝統あるエレンキョイ女子高校で、2014年12月から校長職についたサアデト・ベルナ・オジャクジュオール氏が、冬休み中に校舎内部に大幅な変更を行ったことが報告された。
オジャクオール氏はアタテュルクの絵とパネルを外し、代わりにオスマン時代を題材にした肖像画を飾った。また、校舎の壁に描かれていたバレリーナの絵を塗りつぶしたことが報告された。
サアデト・ベルナ・オジャクジュオール氏はエレンキョイ女子アナドル高校で2014年12月に校長職についた。生徒は1月23日に通知表をもらい冬休みに入った。しかし戻った時に校舎に大幅な変化が起きていたと語った。
主張によると、オジャクジュオール校長は校舎のアタテュルクに関する絵とパネルを外させ、代わりにオスマン時代を題材にした肖像画を飾らせた。また、校舎の壁に描かれたバレリーナの絵がペンキで塗りつぶされていた。生徒と保護者はSNS上で事態に対し反発を示した。
■アタテュルクの絵はもとどおり飾られている
学校関係者によると、校舎で行われた作業に関して、いかなる違法性も見つからない。
しかし、校長は、以前生徒達が美術の教師たちと校舎の壁に描いた絵を塗りつぶした。関係者はアタテュルクの絵とオスマン時代の肖像画に関して以下の説明をした。
「壁を塗るためにアタテュルクの絵を外しました。しかし今日、また元に戻しました。同時にオスマン時代のスルタンたちのいくつかの絵も、国家の偉人の名のもとに校舎の壁に飾りました。私たちの学校において初めて壁にオスマン時代のスルタンらの絵が飾られました。保護者達、生徒達、教師達はこれに慣れていないために反発を示したのです。一方で学校にメスジト(礼拝室)が設けられました、これも法に記されています。既に学校でメスジトが設けられる許可は与えられています。知らない人達は反発を示しますが、違法性はありません。壁を塗るとき、以前生徒達が美術の授業の枠組みで描いたバレリーナの絵がありました。それらを塗りつぶしました。月曜日に行われた会議で、学校の教師達はバレリーナの絵が塗りつぶされたことは、(生徒らの)努力を無にするものだと述べました。校長も軽率だったと認めたものの、法には沿っていると話しました。」
■県教育委員長「他意はない」
ムアッメル・ユルドゥズ県教育委員長はこの問題に関して以下のように話した。
「ベルナ氏は学校に新しく任命された。校舎を新しくするため、作業を行わせました。廊下は本当に使えないような状態でした。そこで壁を塗る作業を行わせました。清掃作業を終わらせました。壁のアタテュルクの絵も汚れをとって、同じ場所に飾りました。さらに学校には、皆さんもご存じでしょうが、トルコの偉人の絵があってもいいはずです。この枠組みでオスマン時代のスルタンらのいくつかの写真を廊下の空いている壁に飾りました。バレリーナの絵を塗りつぶしたことに他意はありません。校長は私に絵が芸術的でなく、時代遅れなものであり、子供たちがそれによってプラスの影響を受けるようなものではなかったので塗りつぶしたことを話しました。要するに『そこにバレリーナの絵がある。塗りつぶそう。』というものではないのです」
■共和国成立以前に建てられた
エレンキョイ女子高校は、共和国成立以前にトルコの女性を啓蒙するための模範となる学校の一つであった。カドゥキョイの最も由緒ある女子高校が設立されたのは1911年である。1911年、ヌムーネ・メクテビの名でルドヴァン・パシャ邸に開校されたこの学校は、1916年にエレンキョイ・イナス・スルターニスィ、すなわち女子高校として教育活動を始めた。エレンキョイ(女子高)はチャムルジャとカンディリそれぞれの女子高校を併合した後、エレンキョイ学校の校舎は、最後の所有者であった内廷官ファイク・ベイから7500金貨で買いとられ、文部省へ与えられた。内廷官ファイク・ベイはトゥトゥンジュ・メフメト・ハリス・ベイと共に、トルコ初の土地、建物の相場師であった。寮の建物であったトプジュ・レイスィ・ハジュ・ヒュセイン・パシャの邸宅も文部省によって最後の所有者であるムラト5世の娘のハティジェ・スルタンから購入され、学校の寮部分が拡張された。1945年2月22日の夜、建物が火事になったため、分散した場所で教育を続けた高校は1954~55年に現在の建物で教育を始めた。
1977年に校舎に新たな建物が増設された。しかし、1990年9月に学校の敷地の非常に多くを占める庭に位置する寮の建物が、アナドル美術高校として教育を始めた。エレンキョイ女子高校は、トルコの女性がアタテュルクの意に沿った形で、社会の中で自分たちの場所を獲得するうえで、非常に大きな重要性をもっている。
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( 翻訳者:竹田史佳 )
( 記事ID:36903 )