偲ばれる、裁判所襲撃犠牲キラズ検事の人柄
2015年04月01日付 Milliyet 紙


裁判所で殺害されたキラズ検事は困難の中教育を受けた人物だった。キラズ検事を知る者は彼が高校時代に小遣いを稼ぐために仕立ての仕事をしていたことを話した。

DHKP-Cの人質事件で犠牲となったメフメト・セリム・キラズ共和国検事は高校時代、学びながら仕立て屋の仕事を行っていたことが明らかになった。
メフメト・セリム・キラズ検事は、スィイルト県出身の父ハック・キラズさんと母サアデト・キラズさん夫婦の一人息子であった。故郷での血の復讐を逃れて、父ハック・キラズさんが家族とともに40年前にメルスィンに移住する決断を下したとき、一人息子のメフメト・セリム・キラズさんはまだ何も知らなかった。キラズ一家は都市の低所得者層の住むデミルタシュ地区に移り住み、二階建ての家での生活を始めた。スィイルトから移住した一家はすぐに近隣住民から好かれるようになった。
ハック・キラズさんがメルスィン裁判所の議事録書記として働いていた時、息子のメフメト・セリム検事はメルスィン・イマーム・ハティプ高校で学びながら、小遣いを稼いで家計を助けるために仕立ての仕事をしていた。

■きびしい仕事の担当に

父ハックさんの一番の望みは、息子メフメト・セリム検事と5人の娘に教育を受けさせて職に就かせることであった。キラズ一家の娘たちは教師や公務員になったが、父のように裁判所勤務を望んだメフメト・セリム・キラズ検事はイスタンブル大学法学部を卒業し、検事に任命された。
キラズ検事の初勤務地はエルズィンジャンだった。ウードゥルとオスマニイェで勤務したキラズ検事は裁判官・検事高等機関(HSYK)の法令によって2010年にオスマニイェからイスタンブル・ガーズィオスマンパシャ共和国検事に任命された。キラズ検事はこの4年間の任務を勤め上げた後、HSYKの夏の任命によってイスタンブル・共和国検事長公務員罪捜査課に配属となった。ここでも厳しい任務がキラズ検事を待ち受けていた。キラズ検事はゲズィ公園デモの時にオクメイダヌで催涙ガス弾が頭に直撃して怪我を負い、269日間病院で意識不明のまま過ごし、2014年3月11日に亡くなったベルキン・エルヴァンさんの死に関する捜査を率いていた。

■捜査の5番目の検事

ベルキン・エルヴァンさんの捜査を率いた検事はエルヴァンさんで5人目だ。彼は迅速に仕事を進め、身元が確認された警官たちを証言に呼んで情報を求め、事件の全貌を明らかにするために昼夜問わず働いた。キラズ検事の記録に残る最後の言葉は、報道陣との会話の際にベルカン・エルヴァンさんの捜査に関して述べた「国が犯人を守るようなことがあってはならない。私たちは犯人を見つけることを望んでいる」であった。チャーラヤン裁判所での8時間の拘束ののち殺害されたキラズ検事の後には、弁護士である妻のヤセミンさんと2人の子供、そして名誉ある職歴が残された。

■「たくさんの困難の中で学んだ」

一家のメルスィン県イェニシェヒルでの隣人の一人、スュヘイラ・ジョシュクンさんは、言葉が途切れそうになりながら、「近所づきあいが非常にいい人たちです。検事さんは夏の休暇には実家に行き、家族と一緒に過ごしていました。本当に仲の良い家族でした。お亡くなりになった検事さんには幼い娘さんと息子さんがいます。息子さんは小学生で、娘さんはこれから学校に行き始めるはずだと思います。つらい知らせを聞いてとても悲しいです」と話した。一家の15年来の隣人であるフェルハト・タシュンさんもこの襲撃を非難して以下のように話した。「亡くなったキラズ検事は高校で学びながら仕立ての仕事もしていました。たくさんの困難の中で学業を修め、検事になったのです。セリムさんは本当に尊敬すべき、慎み深い人でした。我々は自分の息子を亡くしたようです。セリムさんの実家には一時期仕事をしていたウードゥルから人々が訪れていました。何百キロも離れた土地から人々が尊敬と愛情を以って訪れるのです。彼がどのような人間であったかという説明は必要ないでしょう」

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( 翻訳者:竹田史佳 )
( 記事ID:37232 )