フラント・ディンク財団「境界を越える」プログラム
2015年04月19日付 Milliyet 紙


フラント・ディンク財団は「境界を超える」というスローガンのもとに、奨学金プログラムを創設した。このプログラムでトルコからアルメニアに行った4人の奨学生は、そこでの経験や印象を語った。

フラント・ディンクが2007年1月19日に新聞社アゴスのまえで殺害された後、2014年に「全ての人のための民主主義と人権の希求」という理念でフラント・ディンク財団は、創設された。この組織は、EUによって財政支援を受けたアルメニア・トルコ国交正常化プロセス支援プログラムの一環として、「国境を超える」というスローガンでの奨学金プログラムを創設した。トルコとアルメニアの両国から18人の奨学生が4カ月から8カ月間、隣国での生活と様々な組織での活動を行う場を提供してきた。フラント・ディンクの命日に、アルメニアからトルコに来た3人の奨学生と私たちは話をした。今度は1915年 から100年となるこの機会に、トルコからアルメニアに行った4人の奨学生にそこで得た印象や、トルコとアルメニアとの関係についての意見と4月24日にどこで何をする予定かを尋ねた。

■ここに来て、アルメニア人の友達が何を感じているか理解し始めた。

スーザン・メルイェム・ロシタ
ボアズィチ大学での1年目にアルメニア人ジェノサイドについてのプレゼンテーションを行うと、教室から退出させられた。私の家族にこれを話した時、この問題に触れるなと言われた。私もそうしていた。今は、「沈黙」という概念とジェノサイド後の記憶について研究する学者であり、芸術家である。私が思うに、「沈黙」という概念は、アルメニア人の痛みとトルコ人の恐怖と悲しみを説明できるためのとてもいい概念である。現在、「沈黙」という名前の本を書いている。「沈黙の国民」という題名の博士論文を書いている。
私はこの奨学金に申し込んだのは、アルメニアに行って私が書いたことを感じたかったからである。アルメニアに来てすぐに、アルメニア人の友達が何を感じているのかを理解し始めた。現在は見ると痛みを感じられる。私はアルメニア系ではない。しかし、この国民の痛みを感じることができる。

■非難よりも許しを必要としている。

11月以来私はここにいる。4月24日をエリヴァンで過ごした翌日イスタンブルに戻る。ここでは、ギュムリュに滞在していた。カルスから35km、エリヴァンから2時間ほどの小さな場所である。Gallery 25という名のアトリエで働いている。通常は起きてすぐ仕事が始まる。馬に乗ってギュムリュを探索する。午後からは他の芸術家たちと集まってプロジェクトについて話し合う。夜は学生が来る。彼らと話をしている。金曜日には貧しい村の子供たちに絵を描いている。
とても寒い夜を、この地の温かい人々と会話をして過ごした。「トルコから人がここに来て、ジェノサイドを認めて、これについて話ができると私たちは思わなかった」と彼らは言う。何度もお互いに泣いた。私たちを非難するより許すことを必要としている。「ジェノサイドはあったと思っている」と言うや否や、彼らは泣き始める。私の手を触る。古いアルメニアのことわざがある、「水は流れる」である。「水は流れる。道は清められる」と言う意味である。彼らの涙は、この水であると私は思っている。
アルメニアの人々は、二度犠牲にされた人々である。電車でギュムリュからエリヴァンへ行くとき、私が見た自然の景色から私はとても影響を受けた。この景色とソ連時代にあって現在は使用されていない工場もある。この工場はここの人々がどれほど困難な条件で生きて来たかを目の前に突き付ける。若い世代の男性は一種の経済的な追放を受け、女性たちはもともと優先されていなかった。ルポルタージュで年老いた男性が言った次の言葉が私に影響を与えた。「過去の出来事はまるで昨日のことのようだ。未来は全く訪れない。」

■「ここに私がきたことに、敬意を感じたと彼らは話した。」

ニル・デラハイェ
私はフランスで育った。そこでマイノリティの権利擁護に興味を持った。トルコに引っ越すと、移民についての研究を始めた。この奨学金には、スポーツを通して、不安定な状態にいる女性が、良い方向に向かうプログラムを実施するために申請した。アルメニアを今まで見たことはなかった。これが素晴らしい機会になると考えた。

■「私はトルコ人を好きではないと言った。」

昨夏、ムスリムになったアルメニア人というテーマのドキュメンタリーで通訳を務めると、私たちがみなトルコ人であるのと同じくらい、アルメニア人、クルド人、ギリシア人、ユダヤ人、ヤズィーディーやほかの何者かであったかもしれないと、はっきりと感じた。それらは真実とは別に、私たちが自身をどのように感じていて、どのように表現することを望んでいるかに関係していると私は考えている。この土地の子どもであることは、大きな豊かさを有しているということである。現在、私がこの研究を行う理由は、私たちが隣人であるからです、国境が開いた後の、調和した暮らしに向けた準備をしなければならないからです。
アルメニアに11月の上旬に来た。6月までここにいる予定である。エリヴァンで生活している。町の中心部は美しい町並みである。心優しい女性の家で生活している。朝は、市民団体を訪れて女性たちとスポーツをしている。その後、町を散策している。
トルコ人であることを知ると、アルメニアに来たことにとても敬意を持っていると彼らは言う。この意見に賛同しない人は、私と話さない。ここに来た初日、私が働く組織に支援を受けに来た女性の一人が、私がトルコ人であることを知ると、彼女の家族がカルスから来たことを述べた。少し泣きたそうに見えた。「私はトルコ人が嫌いだ」と言った。「憎しみは、傷をいやす助けになるのか」と私が質問すると。「ならない。しかし、少なくとも私は忘れない。」と述べた。一般的に、人々は良くふるまう。彼女でさえも、私の目の中に理解を探していたと私は感じた。

■「問題は境界の問題である。」

アルメニアから見るとこのように見られている。一方には寡頭制によって統治されている国、もう一方には怒り狂う政府。間には、起きたことにあまり関心を持たない二つの国の人々。トルコ・アルメニア問題は国境問題である。双方とも相当自信を持っていて、国境は決して開かれないかのように見える。しかし、国境が開いたなら、可能性に満ちた領域が開拓されることになるだろう。
100周年は、私にとっては、重く悲しい日である。その日は、いつもの様にアルメニア人女性たちと一緒にいるつもりだ。

■「社会的な接触が増えることが重要である。」


ジャンダン・バデム
2010年以来トゥンジェリ大学歴史学部で教員として働いている。専門は、露土戦争とカルス、アルダハン、アルトヴィンの1878年から1921年の歴史である。2009年にアルメニア国立文書館で研究を行った2番目のトルコ人となった。
3月の頭からエリヴァンにいる。5月末までここに留まる予定である。町の中心部のオペラ座近くのアパートに住んでいる。周辺には、美しい公園、銅像、芸術作品がある。エリヴァンは、とても整然とした美しい街である。町中を歩いている。週に3回アルメニア語の授業がある。他の時間は、アルメニア学術アカデミー東方研究所とアカデミーの図書館、アルメニア国立文書館、国立図書館にいる。本屋めぐりをして、買い物もしている。スキーも好きで、トサーカゾルスキーセンターでスキーをしている。時々トルコから来た奨学生と会っている。

■タイプとしては、私は、アルメニア人に似ていると彼らは言う。

私が知り合った人々は私がどこの出身か尋ねる。タイプとしては、アルメニア人に似ていると彼らは言う。歴史家であるとわかると、テーマはすぐにジェノサイドに向かう。
私が思うに、公正発展党政権によっては、全く問題を解決できない。短期間で政治的な解決は見られない。しかし、社会的な接触の増加を私は重要視している。
2015年4月24日はエリヴァンにあるジェノサイド追悼碑を訪問する予定である。

■99年目でも重要であり、101年目でも同じである。

メルテム・ナズ・カショ
冒険をすることが私の生活スタイルであるため、この奨学金の掲示を見ると興奮した。シカゴ大学で学生だったときに、アルメニアの歴史と文化の講義を受けた。このテーマが私の興味を引いた。なぜならば、次のことを考えずにはいられなかったからだ。「トルコにいるアルメニア人が、マイノリティとして成功したいと望むならば、トルコ語を完全に話し、国の歴史と社会の文化を熟知していなければならない。しかし、私たち、トルコ人というマジョリティは、アルメニア人に関して何を知っているのか。ほとんど何も知らない。私は、このテーマへの意識を高めることを望んだ。」
アルメニアに10月末に来て1月末にトルコに戻った。アルメニアで私に実の母のように親切に接してくれたアルメニア人の新聞記者と暮らしていた。アルメニア人の母ノウネは、私がカボチャ料理を好きであると知ると、私にカボチャのスープを作ってくれ、食べきれないと、実の母のように片づけてくれた。私のアルメニアでの日々は、執筆の傍ら、働いていた市民団体組織の事務所に通ったり、友達とおしゃべりをするために会ったりして過ぎていった。

■「傷を包み隠すことを望まない人がいる。」

一度アルメニアの母ノウネは、「ジェノサイドから逃れた私の祖母が、今私が家でこの小さなトルコ人の娘の面倒を見ていると知ったらどう感じるだろうか」と言って涙を流した。これは、時々頭をよぎり、彼女の祖母の目で私やノウネを見ていることを想像している。
1915年のことは、日常生活ではあなた方が想像するほど頻繁に話題にはならない。しかし、問題に触れられないとしても、いつも言外にはある。人々は、一人のトルコ人がジェノサイドを認めるか認めないかに興味を持っている。
トルコ・アルメニア門題が近いうちに解決される可能性は少ない。傷が包み隠されることを望まないものがいる。しかし、長期間で関係を良い方向に持っていければと考えている。奇跡ではなく、ゆっくりゆっくり、人々が対話や、会うことで。
今年の4月24日は日本で魚釣りをしているだろう。冗談ではない。私は、たった1日に大きな意味を持たせることは好きではない。99年目でも重要であり、101年目でも重要である。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:37346 )