IS爆弾犯の母インタビュー「犠牲者の代わりに息子が死んでくれていれば・・」
2015年07月03日付 Radikal 紙


総選挙直前、ディヤルバクルにおける人民の民主主義党(HDP)ミーティングを血に染めたISメンバー、オルハン・Gの母親であるハティージェ・Gさんが、息子の攻撃に関し初めて本紙にその胸中を語った。息子がISに参加しないように尽くしたと話し、「息子がISに参加した後、何度も何度も警察や県庁に相談しました。ダヴトオール首相とも会いました。2度、アクチャカレにも行きました。母親として、出来る限りのことをやりました。私はもう何をすればいいのでしょうか。あのミーティングで息子が死んでいれば良かった、あの時亡くなった方々が死ぬことはなかったのに…」と語った。

ISメンバー、オルハン・Gが6月5日、ディヤルバクルでのHDPの集会で爆破事件を起こし、4人が死亡、また何百人もの負傷者が出た。オルハンのISへの参加に対して息子を連れ戻そうと努めた母親のハティージェ・Gさんが、初めてその口を開いた。息子を連れ戻すため、テル・アブヤドに行こうとしたという。
「2014年、息子は礼拝をし始めました。服装が変わり、顎鬚を伸ばすようになりました。この変わり様は何なのか、その原因を知るために息子の状況をかなり調べました。誰と一緒にいるのか知りたかったのですが、何も分かりませんでした。その後警察に相談したのですが、陳述を受け取っただけで放置されてしまいました。2014年10月13日月曜日の夜7時、息子はいなくなりました。私たちは再び警察と県庁に届出をし、二親としてあらゆる場所を全て探しました。国境付近ではハタイからアクチャカレまでずっと息子を探し、アクチャカレには2度足を運びました。1度目は6日間、2度目は3日間アクチャカレに滞在し、アクチャカレ警察にも行きました。息子の写真をアクチャカレ警察局に渡したところ、何人かが、息子がアクチャカレで食事をしたり、そこで髭を剃ったりしているのを見たと言っていました」と語った。

■息子の友人はカフェでISの旗を持っていた

息子がISに参加する前に、近所のモスクのイマームと喧嘩をしたと述べたハティージェさんはまた、以下のように語った。
「息子が2014年に友人たちと一緒にモスクに行って、礼拝の後イマームに足をかけ、イマームが転んでしまった、ということがあったそうです。イマームが私の夫と会いました。夫はこの事件の後息子と喧嘩をして、息子を殴りました。息子はこの時、『モスクのイマームたちの後ろに並んで礼拝するなど御免だ、あいつらイマームは、政府からお金を貰っているんだ』と言い、この言葉を聞いた夫は息子の顔に唾を吐きつけました。ここに、息子と彼の友人が集まっていた“イスラム”という名前の2階建てのカフェがありました。私たちは家族揃ってそのカフェに行きました。2階では礼拝が行われていて、ISの旗が壁に掛けられていたのです。そこに居た人たちに息子を知っているか尋ねたのですか、誓って知らないと言われてしまいました。家族皆で3-4回そのカフェを前触れなしに訪れ、調べました。この状況を政府に知らせ、カフェを閉店させるよう要望しました。」

■「首相も何とかしようと言ってくれた」

息子を救うため、ハティージェさんはアドゥヤマン県で行われた第5回公正発展党(AKP)アドゥヤマン県通常大会でアフメト・ダヴトオール首相と面会した。
「この面会のために警察署で検察局に申請しました。首相がアドゥヤマンを訪問した際に、私と他3人の家族も首相と直接面会しました。首相は私たちに、国家諜報機構に命令を出すことと、またこの件に関しては首相自ら尽力するとも言ってくださいました。アドゥヤマン県のアフメト・アイドゥン議員とも面会しました。彼は子どもたちの名前を書いてポケットに入れましたが、何の報せもありませんでした。その後、子供たちが18歳を越えた成人であり、何も手立てが出来ないことが伝えられました。ISが息子を洗脳してしまったのです、息子をシリアに連れて行った人物らの名前も警察に届けました」

彼女はまた以下のように述べた。
「6月5日、HDPのミーティングをテレビから見ていました。私はHDPを支持していましたし、家族の中にHDP支援のための活動をしている者もいました。あの日、HDPディヤルバクル集会をテレビの生放送で見ていたとき、爆弾が爆発するのを見ました。息子からは何の知らせもまったくありませんでした。爆発事件の後は丸々2日間泣き続け、自分自身に『この人たちがどうして死んでいくの、なんて哀れな』と思っていました。3日目の晩、夜中11時頃、私に1本の電話がありました。『ガーズィアンテプで、息子さんが逮捕されました、ご両親はすぐに来てください』と言うのです。これを聞いて私たちはアンテプに行ったのですが、そこでは息子はディヤルバクルに居ると言われました。またディヤルバクルに行き、そこで事件の全てを知ったのです。私の世界は崩れ去りました。私の息子があのミーティングで死んでいれば良かった、あそこに居た方々が無事であったなら…。4人の方が亡くなり、多数の負傷者も出ました。亡くなった方々にお悔やみを申し上げます。」

■私は何をすればいいのでしょう

ハティージェさんは爆発事件の後息子とは会っていないという。
「私も1人の母親です、心が痛くてたまりません。やれることはやりました、他に何が出来るというのでしょうか。1人の女性として、出来る限りのことをしました。女でありながら夜中の2時、3時に国境地点を歩き回りました。これ以上、もう誰に何を求めればいいのでしょうか。息子がシリアに行ってから、一度も息子に会っていません。ディヤルバクルで、息子が少し前にトルコに入国していたことを知りました。爆発事件を起こす前、ホテルで兵役逃れで捕えられていたそうです。しかし私たちには何の知らせもありませんでした。何かしらの知らせがあれば、息子が地球の反対側に居たとしても、そこに行って息子を連れ戻したのに。息子が逮捕されて以降、息子とは全く会っていません。正直なところ、会いたくないと思ってしまっています。」

ハティージェさんはアドゥヤマン県からISへの合流は今も続いていると言う。
「今から1か月前、ある男の人が来ました。息子が10人程のグループでシリアに渡ったと言っていました。現在もなお、アドゥヤマンからは多くのIS参加者がいます。けれども、家族は恐怖から、警察に知らせることが出来ないでいます。私は心を痛めた1人の母親として彼らに言いたい、どうか我が子を守ってください」

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( 翻訳者:木全朋恵 )
( 記事ID:38063 )