国民の民主主義党(HDP)が6月5日に実行した大規模な選挙集会を標的とする爆弾テロで両脚を失った映画製作者のリサ・チャランさん、義足であってもディヤルバクルの町を歩きたいと望みこう語る。「私は不屈の民族の子供です。これを乗り越えるために闘わなくてはならない。」
ディヤルバクル駅前広場で6月7日の選挙の2日前に、10万人規模で行われたHDPの選挙集会は、立て続けに爆発した2つの爆弾によって血の海となったが、会場にいた人々が非常に落ち着いていたおかげで更なる悲劇、もしかしたらトルコを暗いトンネルに引き込んでいたかもしれない大きな挑発は防がれた。この恐ろしい爆弾テ ロで、事件現場と、後に搬送された病院で5人が命を落とし、何百人もの人が負傷した。負傷者のうち数人は重傷で、多くは手足を失った。このうちの一人、28歳の映画製作者のリサ・チャランさんも爆発現場に居合わせた。瞬時にして両脚を失った。
中東映画アカデミー協会のアート・ディレクターで、ショートフィルムの制作にあたるリサ・チャランさんは、現在ディヤルバクルの家に住んでおり、最も好きなことである“ディヤルバクルの町を端から端まで歩くこと”を懐かしみ、たとえ義足であっても再び歩けるようになるのを望んでいる。
リサ・チャランさんはフラト通信(ANF)のゼイネプ・クライ記者に爆発の瞬間とその後の生活について説明した。
チャランさんは6月5日にHDPの最後の選挙集会に参加するため興奮して駅前広場にやってきた。爆発の起きた場所にいることを妨害するような多くの出来事があったのに、気づくと自身は爆弾の横にいた。チャランさんは人生 を大きく変えた爆発をこのように説明している。
■「ジョークであってほしいと思った。」
「友人と一緒に働いていた協会を閉めて、とても興奮しながら集会が行われる駅前広場に行きました。警察のセキュリティ・チェックが済んだ後で満員となった集会場に入りました。そこで興奮しながら集会の開始を待っている時、姉に電話をしました。姉は父が刑務所に入っているいとこの結婚式があり、短い時間だけでも来たらいいと話しました。少したって18時頃に服を変えてこようと一度家に戻ることにしました。姉は家に戻らずそのまま結婚式に行こうと主張し、友人たちがその道から行かないで、あそこは混雑に巻き込まれるからと何度も忠告したにも関わらず、私は近道だからと言って人ごみの中にまぎれていきました。
変圧器があるところで進めなくなりました。目の前に膝くらいの高さの台があり、その上にサモワール(給茶器)が残されていました。身動きもとれなかったのでそのベンチで足を休ませました。ベンチから立ち上がろうしたときに大きな爆破音とともに私は後方に飛ばされました。目を開けたときは耳に残響があり、何も聞こえませんでした。ショックのせいでこの時はまだ痛みを感じませんでした。周りを見渡すと、人々が血の中で折り重なるようにして倒れているのに気が付きました。その状況を説明するのにふさわしい言葉なんてありません。恐ろしかった。まず身を正すと下肢に軽い痛みを感じました。カエルのような姿勢をしていたので最初は足を骨折したのだと思いました。左脚を引いてつかんでみるとあるはずのものがなかったのです。この瞬間これがジョークであってほしいと望みました。さらに天を仰ぎながら心の中で「神よ、あなたは私に冗談を言っているのですか」と言いました。左脚は膝から下の部分がなく、ただ肉がむき出しになり蛇口のように血が流れていました。「どうかもう片足はあってほしい」と思いつつゆっくり引いてみましたが状態はより悪い物でした。肉は飛び散り、骨があらわになっていました。両脚を失ったことが分かると意識を失ってはいけないと感じました。なぜなら、意識を失ってしまえば死に至るからです。ひどく痛みはじめました。腕と長い髪の半分が焼けたようでした。
■「救急車で搬送、何の手だてもなかった。」
瞬間的に戦闘が起こったのか、さもなければ私たちは集会の場にいたのではなかったのだろうか?と思われるかもしれません。周りの人たちがすぐによってきて、女性たちは「我々に仕掛けた残虐な行いだけじゃすまないのか」とクルド語で嘆き始めました。我に返った若者たちは負傷者の救助を始めました。私は座ったような体勢のまま両手で脚を探し始めました。するとハンドバックを見つけました。目の前がまっ黒になり始めていましたが、意識を失わないように力の限り抵抗しました。その時の出血はひどく、後から知らされたことによれば8キロの出血でした。そもそも人体には10キロの血が流れているのです。若者たちが私の両脚をベルトで縛りました。2人の若者が私を抱え上げて負傷者のために開けられた道から救急車に乗せてくれました。興味深いことに救急車の中は空っぽでした。応急処置ができるような道具は全くありませんでした。その日は事件の後、孤独感を強く感じました。家族も横におらず、唯一知っている声は舞台上からアナウンスをするシェルコ(シェルコ・ベケス。クルド人詩人)の声だけでした。延々と変圧器が爆発したとアナウンスしており、私は心の中で「違うの、シェルコ、爆弾が爆発して私は死にそうなの」と叫びまし た。繰り返し死んだらいけない、耐えなくてはいけない、と自分の身に言い聞かせました。後になって、両脚を失ったというのにどうしてあんなに耐えたのか疑問に思ったが、この答えを我々クルド人の真実の中に見出しました。我々クルド人は、残虐な扱いを受けながらも常に耐えて、まっすぐに立つことを学んできたのです。」
■「母は2人の子供が脚を失ったことを嘆く」
警察関係車両が道をふさいだことによって長時間救急車の中で待たされたチャランさんは、意識を失うぎりぎりまで耐えた。ディジレ大学医学部付属病院で手術を受けたチャランさんは1か月後に2回目の手術を控えている。歩くことと走ることが大好きなチャランさんのただ一つの願いは義足であっても再び動き回れるようになることだ。チャランさんはこう話す。「大きなディヤルバクルも私には小さくおもえます。色々な場所へ歩いて行っていました。すべてが突然無くなるのです。考えもしない瞬間に人生の流れは変わってしまうのです」と。
チャランさんの兄もまた、(PKKが拠点を置いている)山で脚を失っている。「私の兄は戦争の犠牲者です。雪の寒さから壊疽を起こし両脚を失いました。私たちは同じ運命を共有しているのです。母は、『2人の子供が両脚を失った』と言っていつも泣いています。たまに私はこんな風にいいます。もし姉の言うことを聞いていたら…、姉と一緒に行っていたら…と。でも、このことについて‘もしも’と言い続けていたら、息が詰まってしまいます。この痛みから救われることはできません、だから私は、このことを自分のものとしていくつもりです。」
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( 翻訳者:進藤鮎花 )
( 記事ID:38198 )