自爆テロ―スルチで失わわれた若き人々の夢
2015年07月22日付 Milliyet 紙


スルチ郡のテロで命を落とした若者の多くは、大学生で、90年代生まれだ。中には母子で命を落とした被害者や、コバーニーで息子を失った父親が犠牲になったケースも…。

シャンルウルファ県スルチ郡において、コバーニーへ支援物資を送るために集まっていた、大学生多数を含む社会主義青年協会連盟(SGDF)のメンバー32人が爆発で殺害された。犠牲者の身元が明らかになるとともに、彼らのライフストーリーも浮かび上がって来た。若者たちのその短い生涯に隠れていた物語に、胸が締め付けられる。

■犠牲者名簿

ウウル・オズカンさん、フェルダーネ・クルチさん、ナルタン・クルチさん、イスメト・シェケルさん、ジェム・ユルドゥズさん、ナズル・アクユレキさん、ブシュラー・メテさん、アイダン・エズギ・サルチュさん、スレイマン・アクスさん、アルペル・サパンさん、オカン・ピリンチさん、フィキリイェ・エジェ・ディンチさん、エムルッラー・アクハムルさん、ムラト・ユルトゥギュルさん、ハティージェ・エズギ・サーデトさん、ナゼギュル・ボイラズさん、コライ・ チャプオールさん、セルハト・デヴリムさん、ムジャーヒト(エヴリム・デニズ)エロールさん、チャーダシュ・アイドゥンさん、ジェブライル・ギュネバカンさん、ヴェイセル・オズデミルさん、アリジャン・ヴラルさん、オスマン・チチェクさん、カスム・デプレムさん、ユヌス・エムレ・シェンさん、エルダル・ ボズクルトさん、ディレク・ボズクルトさん、メフメト・アリ・ヴァロルさん、メド・アリ・バルトチュさん、ポレン・ウンリュさん

■コジャエリ大学の失った悲しみ

―ナズル・アクユレキさん:サカリヤ出身のアクユレキさんは、アタテュルク高校を卒業後、コジャエリ大学法学部に入学し、そこで非抑圧者社会主義党(ESP)の活動に参加した。

―ヌライ・コチャンさん:ブルサ出身のコチャンさんは、アクユレキさんと仲の良い友人だった。彼女もまた、コジャエリ大学法学部で学んでいた。
ムダニヤ・サーミ・エヴクラン・アナドル高校卒。親友二人は共に、コジャエリ大学の学生が結成した「未来の法学者プラットフォーム」のメンバーだった。土木作業員の父アリ・コチャンさんは「娘には行くなと強く言った。娘は『パパ、子どもたちにおもちゃを配って、図書館を作りにいくの』」と言ったという。

■「息子は夢を追い求めて死んだ」

―イスメト・シェケルさん:今年の1月27日、コバーニーのYPG部隊でISに対して戦っている時に命を落としたムスタファ・ジャン・シェケルさんの父親だった。元々スィヴァス県ザーラ出身のシェケルさんは、息子の亡くなった現場を見るため、そして支援をするためにでかけた。(それまでは) イスタンブルのガーズィ街区で暮らしていた。昨日、遺体を引き取った娘のディレキ・シェケルさんは「行かないでと言ったのにお父さん、なぜ聞き入れずに行ってしまったの」と述べた。娘のディレキさんは、「父は兄を追いかけていきました。父は『私は建築業者だから、子供たちに学校を建てたい』と言い、その夢を抱いて生きていました。ISは、私たち家族を壊しました」と話した。またシェケルさんは、息子の死後すぐに妻をも亡くしていたことも明らかとなった。

■「彼は人権クラブの代表でした」

―ムラト・ユルトゥギュルさん:イスタンブルのアレル大学心理学部4年生のムラト・ユルトゥギュルさんを学ばせるため、家族は銀行から学資の融資を受けていた。まだ25歳のユルトゥギュルさんは、アレル大学で民主主義と人権クラブの代表を務めていた。心理学を専攻していたユルトゥギュルさんは、コバーニーの子どもたちに心のケアを支援しようとしていた。母親のシェムサ・ユルトゥギュルさんは「息子は人道のために、コバーニーへ行こうとしていました、けれども人道の敵が彼を殺したのです」と話した。ユルトゥギュルさんの葬儀は故郷マルディンのクズルテペで行われる。

■最後の教えを理解しました、先生

―スレイマン・アクスさん(27):ユクセコヴァ出身の英語教師だった。チュクロヴァの大学で学び、故郷のユクセコヴァで教壇に立っていた。アクスさんの生徒や同僚らは昨日、働いていたシェムセッティン・オナイ・アナドル高校前で行進し、攻撃を非難した。会見で生徒たちは、「最後の教えを理解しました、先生」 と書かれたプラカードを掲げた。その後、グループは無言のまま解散した。

■マルテペ郡の支部長だった

―ドゥイグ・トゥナさん:HDPマルテペ郡支部の共同支部長を務めていた。やはり爆撃で亡くなったギュネバカンさん、ボイラズさんと同じ街区で暮らしていた。いとこのバルシュ・トゥナさんは、フェイスブックに「いとこを失った者として、この質問の答えを探している:もしこの学生たちがカドゥキョイを離れたあとに MİT(国家諜報局)が追跡していたとしたら、今回の爆破で諜報員が誰も怪我をしなかったのはなぜか。学生たちを500m後ろから追跡していたのか?」と投稿している。

■「死のためでなく、生のため」と話した

―アルペル・アスランさん(20):ギレスン出身のアルペル・アスランさんは、エスキシェヒルで哲学を学んでいた。良心的兵役拒否を公言していた20歳の サパンさんは、フェイスブックの共有で「死ではなく生のために軍国主義を拒否する」と表明していた。彼が生前交際していた女性は、サパンさんが亡くなったあとの書き込みで 「復讐が叶うまであなたの側には埋葬しないで、アルペル。信じて、決してあきらめないから」という表現を使い注目を集めている。サパンさんは、故郷ギレスンで埋葬される予定だ。

■夢は文学教師だった

―ユヌス・エムレ・シェンさん(22):アンカラ大学言語歴史地理学部トルコ語トルコ文学学科で学んでいた。非抑圧者社会主義党(ESP)の党員だった。友人は「ケケ」という愛称で呼んでいた。今日、故郷ヴァンで埋葬される。

■デモ行進のシンボルになった男性

―ジェブライル・ギュネバカンさん(23):エラズー県カラコチャン出身、イスタンブル大学法科大学院の学生だった。ギュネバカンさんは、アダナで行われたコバーニー支援のデモ行進で警察官が彼の口を裂けそうになるほどこじ開けている写真で有名になった。ジェブライルさんは17歳から3年間服役した。アダナでのHDP集会爆破事件で助かったジェブライルさんは、2年前イスタンブルのギュルスユの路上で、ストリートギャングと衝突し、負傷していた。運転手をしながら家族を養っていた父のハジュ・ギュネバカンさんは、「息子はとても多感な子でした。ベランダで鶏を焼くことも許しませんでした。『近所に貧しい人たちがいる、ゲジェコンドゥの人たちだよ、だからやらないで』と言っていました。私たちはこれまで貧しい暮らしをしてきました。治療を受けさせることができず、息子を二人失くしました。ジェブライルには、勉強して家族を援助してほしいと思っていましたが、その願いも叶いませんでした」と話した。

■「皆の心に人生の火が灯る」

―カスム・デプレムさん(28):スルチ郡のアシャウ・オイルム村出身、アクチャカレ在住だった。ハラン大学農学部の4年生だった。HDP青年部の党員だったデプレムさんは、亡くなる8時間前にSNSに「安寧の故郷に行きます」と投稿していた。

―オスマン・チチェキさん:デプレムさんと同じスルチ郡アシャウ・オイルム村のディクメタシュに籍を置いていた。

―ナゼギュル・ボイラズさん(55):CHPのマルテペ区議会議員であるヤセミン・ボイラズ氏の母親。4人の子どもを持つボイラズさんは、イスタンブルのギュルスユに住んでいた。娘のヤセミン氏と一緒にコバーニーへ行こうとしていたところだったが、娘の盲腸の手術を理由に出来ないでいた。息子がISと戦うためにシリアへ渡ったと報じられるボイラズさんは、コバーニーの人々を支援するため、息子に会うために旅立ったとされている。爆破の犠牲となったジェブライル・ギュネバカンさんと同じ街区に住んでいた。

―チャーダシュ・アイドゥンさん(27):HDPエセンレル区支部長フェトヒー・アイドゥン氏の息子、トゥンジェリで生まれた。(インターネット・ポータル)Ötekilerin Postasıの編集者だった。エスキシェヒルにて、行政学部で学んでいた。亡くなった晩、フェイスブックのページでユルマズ・ギュネイの「いつの日か、皆の心に人間的人生の火が灯るだろう」という言葉を共有した。
―ジェム・ユルドゥズさん(65):スィノプ出身のユルドゥズさんは6月7日総選挙でHDPからスィノプ選出議員に立候補した。イスタンブルのガーズィ街区で暮らしていた。選挙二日前のHDPディヤルバクル集会爆破事件後、SNSで「挑発で彼らの最後を変えることは出来ない」と投稿していた。

―ブシュラー・メテさん(23):イスタンブル出身のメテさんは、イスタンブル大学コミュニケーション学部の学生だった。HDPベシクタシュ青年部の党員だった。コバーニーへ支援を届けるため、同じ組織のエズギ・サーデトさん、ポレン・ウンリュさんと共に出発していた。

■どの行進でも最前線に立っていた

―コライ・チャプオールさん(32):トラブゾン県オフ出身のチャプオールさんは、革命家トラブゾンスポル会のメンバーだった。爆発が起きた際、手にトラブゾンスポルのチームフラッグを持っていた。チャプオールさんは、ゲズィ事件やディンク追悼、ヴァリデバー森林保護運動・ユルジャ村支援運動、最近では「緑の道を止めよう」デモに参加し、どのデモにおいても最前列にいた。

■爆破のシンボルの女性が生きている

スルチの爆破事件で命を落としたイズギ・サーデトさんの手を固く握っている姿を取られた写真から爆発のシンボルとされ、亡くなったと思われていたギョクチェ・チェティンさんが負傷者だったことが明らかとなった。シャンルウルファで初期治療を受けたチェティンさんは、先進治療を受けるためイスタンブルに搬送された。チェティンさんは、亡くなった友人の手を強く握り人々の記憶に残り、また爆発で身体中に骨折や怪我をしているが、今日の午後、治療を受けるメフメト・アキフ・イナン教育研究病院の救急車でシャンルウルファ空港へ運ばれた。チェティンさんは、飛行機で先進治療を受けるためイスタンブルへ運ばれたことが明らかとなった。

―ハティージェ・エズギ・サーデトさん(20):ミマル・スィナン芸術大学美術史学部で学んでいた。2年前、この学部に合格した際、フェイスブックのページに 「仕事はなくなるけど、私は幸せです」という書き込みをしていた。ハティージェさんは、コバーニー訪問を企画していた社会主義青年協会連盟(SGDF)の共同代表オズゲン・サーデト氏の兄弟だった。

■コバーニーに公園を作る予定だった

シャンルウルファ県スルチ郡におけるテロ事件の犠牲になったエルダル・ボズクルトさんは、アールで埋葬された。社会主義青年協会連盟(SGDF)のメンバーだったボズクルトさんの遺体はガーズィアンテプ法医学協会で検死を受けたあと、家族の手に渡され、故郷のトゥタク郡ソルグチュル村に運ばれた。村のモスクで取り行われた葬儀には、ボズクルトさんの家族や親戚、HDPアール選出のベルダン・オズテュルク議員、メフメト・エミン・イルハン議員、フラト・オズチュルク・トゥタク市長、HDPの県と郡の代表、多数の市民が参加した。ボズクルトさんの亡骸は、葬儀礼拝のあと村営墓地に埋葬された。イスタンブルで建築関係の仕事をし、3人の子どもの父であり夫であった27歳のボズクルトさんは、コバーニーに公園をつくるためにスルチへ来ていたことが明らかとなった。

■コバーニーのために働きたい

―ウウル・オズカンさん(26):ジズレ出身の建設作業員で、1993年にイスタンブルに移住した。コバーニーの復興に携わることを望んでいた。「これまではお金のために働いていたが、今日から一週間は、コバーニーのために働きたい」と言いスルチを訪れていた。SNSのページで昨年、「死ぬことは美しいことだお母さん、自由のために死ぬことは」という言葉を共有していた。

■ゲズミシュのコートを買う金はないけど

―アリジャン・ヴラルさん(18):サムスン出身。非抑圧者社会主義党(ESP)のメンバーだった。昨年オンドクズ・マユス大学で政治学、行政学を学び始めた。ヴラルさんのフェイスブックへの投稿は、読む者の涙を誘った。68連帯※の革命指導者デニズ・ゲズミシュの、伝説となった緑色のコートによく似た服を見つけた店で、コートを羽織って写真を取り、「これこそ革命家の魂、夢にまでみたコートを買う金はないけど、記念に写真に収める」とコメントを残した。

※68連帯:1960年代活発化したトルコのマルクス・レーニン主義団体

■高校からの活動家

―オカン・ピリンチさん(18):今年高校を卒業したばかりだった。大学を受験し、合格発表を待ち望んでいた。ハタイ県サマンダー出身で、アラブ系アレヴィー派。革命活動とは高校時代から接触していた。人民防衛隊(YPG)に参加し、コバーニーではISと戦っていた時に亡くなったエムレ・アスラ ンの友人だった。ピリンチさんの遺体は昨日、デフネ郡ハンジャウズで開かれ数百人が参列した葬儀で埋葬された。

■カドゥキョイ・アナドル高校出身の女性

―フェルダーネ・エジェ・ディンチさん(22):デュズジェ出身のエジェ・デュンチさんは、カドゥキョイ・アナドル高校を卒業し、イスタンブル大学法学部に入学した。また同時期よりイスタンブルのカドゥキョイで非抑圧者社会主義党(ESP)の区支部の活動に参加していた。

■チェルケズの遺族、深い悲しみ

―フェルダーネ・クルチさん、ナルタン・クルチさん:HDPブルサ選出のメティン・クルチ議員の夫人フェルダーネ・クルチさんと、息子のナルタン・クルチさんは、爆発で命を落とした親子である。チェルケズ出身のクルチ議員の娘スィネムさんは、負傷したが命は助かった。クルチ母子に関するSNSへの投稿には、チェルケズ虐殺に関連して共有されたノートや写真がある。HDP本部のメンバーでもあったフェルダーネさんと息子のナルタンさんは、ブルサで埋葬される予定だ。

■「私たちは太陽の子」

―アイダン・エズギ・サルチュさん:ツイッターで「雨の女(Yağmur kadın)」の名前でSNS上に投稿した「私たちは太陽の子である。笑いながら死へ向かう。引き返させるものも恐れを抱かせるものもない。花嫁の髪姿を一結い一結い、私たちはつないでいく」というメッセージが残されている。サムスン出身のエズギさんは、フェイスブックで最期に、「革命の火は消えない」という書き込みをおこなった。2013年5月1日にはタクスィム広場で逮捕され、釈放された一人だった。

―エムルッラー・アクハムルさん:マルディン県クズルテペ出身のアクハムルさんは、メルスィン大学歴史学部で学んでいた。事件で亡くなったムラト・アクギュルさんとは幼馴染だった。

―メド・アリ・バルトチュさん:マルマラ大学政治科学部で学んでいた。ムシュ出身。昨年参加した活動が理由で1年間の停学処分を受けていた。バルトチュさんの兄と姉がコバーニーでISと戦っていた。兄は七年前、ボアズィチ大学建築工学部に在籍中、逮捕されている。またバルトチュさんの父親は、2009年に KCK事件に関連して拘束され、その後解放された。

■エヴリム・デニズに改名した

―ムジャーイト・エロールさん(19):ムシュ県コルクト出身だった。ハラン大学音楽学部の1年生で、エヴリム・デニズという名前に改名していた。ムジャーイトさんの兄メスト・エロールさんは、父親がかつてヒズボラのシンパであったこと、これを理由に自身と弟がヒズボラへの共鳴を迫られていたこと、しかしこれが弟を苦しめていたことなどを明らかにした。メストさんは、「父は弟にも強制しようとしていました。弟は哲学に興味を持ち、研究をしていました。そして党の活動に傾倒し、それからアナーキストになりました。スルチにはアナーキストとして向かいました。強制や圧制、権威、階層を認めませんでした。オズゲジャンのデモ行進や、LGBTのパレードでは一番前を陣取っていました。弟は私に『コバーニーの人たちを手伝いに行きます、人道のためにコバーニーにレンガを積んで歴史に名を刻みたい』と言いました」と語った。

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( 翻訳者:池永大駿 )
( 記事ID:38229 )