リポート〜RPGをこよなく愛するムッラー・オマルの知られざる正体(1)
2015年07月30日付 Jam-e Jam 紙


【国際部:マアスーメ・ザーレ】マウラウィー・グラーム・ナビーの子どもムッラー・ムハンマド・オマル(ムジャーヒド)はヒジュラ太陽暦1339年、西暦1960年にカンダハール州で生を受けた。ムッラー・ムハンマド・オマルは、ホタク族のトムズィー一族出身で、ホタク族はパシュトゥーン部族の中の一つの大きな枝族である。

 ムッラー・オマルは5歳で父を亡くし、父の死後、彼の家族はウルーズガーンに移住した。ターリバーンの最高指導者に関する伝記には、彼の性格について次のように述べられている。

彼は穏やかで、怒りを表に出すこともなければ、何かに恐れおののくこともない。国外に家や銀行口座をもってはいない。社交的かつ格別に快活な性格で、仲間たちに対して傲った態度をとるようなことは決してない。

 対ソ連アフガニスタン・ジハード(聖戦)の初期、ムッラー・オマルはムジャーヒディーンの一般歩兵として、2週間パキスタンに赴いた。彼が宗教教育を放置してムジャーヒディーンに加わったのは、この攻撃の後であった。

 言われているところでは、彼はある戦闘のさなか、爆発に遭遇した結果、片目を失ったとされる。また、その時に麻酔薬や消毒薬を使用せずに、ナイフで眼球を抉り取り、まぶたを縫合したとも言われている。

 ソビエト軍のアフガニスタン撤退の後、1989年から1994年までの間、ムッラー・オマルはカンダハール西部のある村のモスクのイマーム(導師)となった。彼がターリバーンのアミール(長)、すなわち指導者となったのは、1994年10月のことであった。

 1996年、「シューラー」と呼ばれ、神学生(ターリブ)1500名が参加してカンダハールで開かれた大規模大会で、ムッラー・オマルは「アミールル・ムウミニーン」(信徒らの長、カリフのこと)の称号が与えられた。

 この時までに、ターリバーンはアフガニスタンの国土の約90%を占領していた。最終的に2001年10月の米軍及び北部同盟軍(NATO)の攻撃により、ムッラー・オマル指導下の統治体制は短期間の抵抗の後に崩壊し、その後彼はターリバーンの指導者を続けながら、姿を隠していた。

 彼の名は、アメリカによって「最も危険なテロ組織10大指導者」のリストに記載されている。

つづく


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( 翻訳者:IM )
( 記事ID:38399 )