外出禁止令解除のジズレ、戦争のあとの光景
2015年09月12日付 Cumhuriyet 紙

シュルナク県ジズレ郡では、外出禁止は解除されたものの、出られる状態の街路は残っていない。銃弾やロケット弾を受けていない家は残されておらず、ベイルートの街路を思わせる。

シュルナク県ジズレ郡での外出禁止は昨日(11日)解除された。銃弾やロケット弾を受けていない家はなく、ジズレはまるで戦いの後の様相だ。23人が攻撃により、4人は医療サービスを受けられなかったため、女性や子供、老人を含む計27人が死亡したという。

今日は9月12日過程(1980年クーデター)の35周年目だが、9月12日当時にすら見られなかったようなトルコで最も長く厳しい外出禁止を経て、8日後に禁止が解除されたほんの1分後の7時1分に、我々はジズレに入った。8月27日に子供2人を含む4人が殺害されたジズレに、15日後再び訪れた際、私たちは戦争から出てきたかのようなジズレと対面した。まるで廃墟となっているコバーニーにいるかのようだ。郡の入り口で軍と警察双方のバリケードを通過してジズレに入ると、扉も窓も固く閉ざされている。ドルトヨルでは重火器を装備した警察の装甲車が待機している。ヌル区ではPKKの青年組織YDG-Hのメンバーと治安部隊の間で最大の衝突が起こって戦車で攻撃され、壊滅させようとされたかのようだ。当局は外出禁止の間も郡内のパン屋は開いていたというが、街路のパン屋は穴だらけだ。

赤ん坊のおむつも牛乳も水のなく、通りには衝突の跡や燃やされ破壊された家々、死んだ動物の死体がある。ジズレの住民は、水がなく、井戸水を飲み、子どもたちは病気になり、下痢が流行したと話している。店はほぼすべてが閉まっており、市場やバッカルの幾つかは営業している。おむつや牛乳、水、基本的な食料が尽きている。新鮮な野菜や果物は皆無だ。ほぼすべての街路で変圧器爆破され、地面には電線が落ち、水が溢れている。水道管が故意に爆破され、水が家々には届かず街路を流れているのだ。

■身元が確認されていない死者も

死傷者の状況を見るため国立ジズレ病院に向かうと、再び装甲車や私服警察に出会った。メソポタミア遺族相互扶助・文化協会(MEYA-DER)ジズレ支部長のカスム・イイト氏は、23人が火器によって負傷したため死亡し、また4人が医療を受けられなかったため心臓の発作ほかの理由で死亡したと明らかにしている。一部は身分証を持っていなかったため、身元が確認されていない。

■病院には医師がいない

国立ジズレ病院の医師らは、この2週間の出来事と外出禁止によって、恐怖や圧力を受け郡を離れた。医療協会の呼びかけによって集まったボランティアの医師らが病院で診察を行っている。 ジズレには50人の負傷者がいるとされるが、正確な数は不明だ。負傷者はそれぞれの自宅で治療を受けているようだ。

■血だらけのパン…

ジュディ区の街路に入るやいなや、左側の壁の下にナイロンの袋に入ったいくつかの乾いたパン、その前には血だまりと骨の破片があった。これらは、ゴミを収集して暮らし、昨夜殺害されたメフメト・エルドアンさん(75)のものだ。エルドアンさんの甥であるマフムート・テキンさんは、おじが道の端にやってきた装甲車によって殺害され、頭蓋骨が爆破されたと話した。

■「息子は7時間苦しんだ」

若い女性が写真を手に、遺体安置所の前で泣いていた。16歳、高校2年生のメフメト・サイト・ナイジくんの母、ヌルジャン・ナイジさんだった。ナイジさんは息子の写真を見せ、「心臓が張り裂けそうです」といって嘆き悲しんだ。ナイジさんは、息子は21時頃射撃の名手によって家の中で心臓を撃たれ、明朝4時まで苦しみを味わったと語った。救急車は来なかったという。ナイジさんは、「首相は市民の死者はいないと言いました。私の息子は家の中で撃たれました責任者についていくのをやめます」と述べた。

■赤ん坊が泣いて生存が判明

腕に赤ん坊のベルクスウェダンちゃんを抱いたゼイネプ・ダヤンさんは、家の前で撃たれて死亡した。当初は2人とも死亡したと思われたが、赤ん坊が泣いたため、生きていることがわかった。マーシャッラー・エディンさんは、花嫁の遺体と墓を受け取ろうとしている時に殺害された。彼らの引取を希望した親戚、ムスタファ・エディンさんは脚や臀部を、ゼイネプさんのおばファトマ・エディンさんは足を撃たれた。負傷者は庭の壁を壊して中に入れられた。悲しみにくれる父親のムスタファ・エディンさんは、「神よ、エルドアンに報いを。彼がこの戦争を始めさせたのだ。私はこの政府を告発する」と言い、反発を示した。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:38699 )