ターリバーン内の権力の危機、続く(1)
2016年05月23日付 Iran 紙

【イラン紙20面】ムッラー・マンスールの死は、ターリバーンにとって大きな空白となるだろう。というのも、彼は紆余曲折を経ながらも、このグループにおける自身の地位を確固たるものにし、ムッラー・オマルの息子・兄弟をはじめとする、ターリバーン内の有力不満分子の一部を自身に帰順させることに成功していたからである。ムッラー・マンスールはまた、自身の指導に挑戦状を叩き付けていたムッラー・ムハンマド・ラスール指揮下の元ターリバーン・グループを黙らせることにも成功していた。他方、彼はアフガニスタン治安部隊に対する大規模な攻撃を開始したことで、ターリバーン関係者らの信頼を得ることもできていた。現在、彼の死によって生じた大きな空白が、ターリバーンの指導者争いを再び引き起こす可能性がある。

 ムッラー・アフタル・マンスールは1960年代、アフガニスタンのカンダハール州に生まれ、ターリバーンによるアフガニスタン統治時代には航空大臣を務めていた。しかし、ターリバーン体制の崩壊後、彼は自身の郷里(カンダハール)の「影の州知事」となった。

 ムッラー・マンスールはターリバーンの上級司令官の一人であったアブドゥルガユーム・ザーキルと深刻な対立状態にあった。これは権力闘争、ないしアフガニスタン政府との交渉に関する意見の相違をめぐるものだった。西暦2010年には、ムッラー・マンスールはハーミド・カルザイ前アフガニスタン大統領と会談したと指摘されたことがあったが、その後これとは異なることが証明された。国連の報告によると、ムッラー・マンスールは麻薬密輸でも主導的な役割を担っていたという。

 ムッラー・マンスールがアフガニスタン・ターリバーンの指導者に就くと、同グループの一部の高官らは彼に忠誠を誓ったが、ムッラー・オマルの兄弟・息子をはじめ、ターリバーン内で影響力をもつ有力者の中には、彼への忠誠を潔しとしない者も現れ、ターリバーン内では深刻な内部対立が始まった。

 こうした対立の過程で、ムッラー・マンスールの指導を認めない同グループのメンバーらは彼と袂を分かち、「ターリバーン不満派」と呼ばれるグループと、ムッラー・アフタル・マンスール支持者らの間では武力衝突も起きた。

 またムッラー・マンスールがアフガニスタン・ターリバーンの指導者となった当初、新指導者はカーブル政府との和平交渉を支持する人物だと考えられていた。しかし実際はそのようにはならず、彼は交渉の場に着くことを繰り返し拒んでいた。

つづく


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( 翻訳者:IJM )
( 記事ID:40684 )