7月15日クーデター事件後の非常事態宣言によって閉鎖されたボスポラス海峡のチェンゲルキョイ-ヴァニキョイ間の海岸に位置するクレリ 士官学校がどのように存続すべきか議論の的となっている。建築商工会議所大都市支部長官アリ・ハジュアリオール氏は、海峡の最も重要な地域に位置しイスタン ブルのシルエットとしても欠かせない存在である、約200年前に建設された軍学校の将来的な利用方法について評価し、「クレリ、ハイベリアダ、イェシル キョイのような士官学校は教育の場として適した構造である。この構造を教育現場の構造として継承していくべきである。」と述べた。
■「再び学校として使用されるべき」
ハジュアリオール氏ルは都市建築物の機能との一体性を創り出していると述べ、アナトリア側に位置するクレリ士官学校のような都市のシンボル的建築物の一つであるハイダルパシャ駅舎を例に挙げた。この種の建築物は都市の記憶において重要な地位を占めていると指摘するハジュアリオール氏ルは、「都市内のこれらの建築物は、まるで都市の装飾品のようである。その機能と一体化した建築物なのである」と語った。更に、クレリが学校として存続していくことを主張し、 「政府の教育制度変更に関する決定が教育の場としての建築物をなぜ議論の的にするというのか」と述べた。
■「軍用地を新たな借地として見るべきでない」
ハジュアリオール氏ルは都市外への移設が計画されていた軍用地が公有地であることを強調し、「軍用地が公有地であることを忘れずに、公有地として再利用するという原則を受け入れるべきである。ここが借地にされることがないようにすべきだ」と述べた。
■「自由の場として利用されるべき」
建築家コルハン・ギュムシュ氏はクレリ士官学校の今後の機能に関し次のような提案をしている。「この種の公有地は過去に人々を規律する目的で使用されていたが、今日では自由の場となりえる。イスタンブルにある全ての軍用地を実験的発想、特に若者の教育や実験に対する需要を補えるような基盤とすることができる。」また、提案したようなモデルを『固定』された場所として考えていないとし、「このような場は暴力から解放され、自由に話し討論することができるようなイスタンブルの最も重要な自由広の場であるべきだ。ここで都市がどのように生まれ変わり、どのように発展していくかを議論できるようにすべきだ。」と述べた。ギュムシュ氏は、機能が変わりまるで芸術を生み出す場のような状態となったユーゴスラビアの軍用地や戦艦停泊地であるベネチアの造船所(アルセナーレ)を例として挙げた。
■「クレリを記念館のように評価すべきである。」
更にギュムシュ氏はクレリ士官学校が人々の記憶上重要な場所であることを強調し、「クレリは海峡の顔である素晴らしい歴史的建築物である。この建物をホテルのように考えてはいけない。この建物にふさわしい価値を与え、完全なる記念碑して評価されるべきである。ただ『守ろう』というだけでは不十分である。ここ は歴史的場所なのだから。建築家が競い、優秀な者が完全に補修するべきである。そして、それは創造的努力によってできることである」と述べた。ギュムシュ氏は軍用地の公共性の保護に関する新しい公共管理への理解を高めていく必要性を説き、「都市内の森や文化遺産地域も守れずに来た。今日までは軍事的論理から都市内の緑地が守られてきたが、もしこの論理を続けたとしたら、森に起きた事は軍用地にも起きるだろう。」と警告した。
■「クレリ民主化博物館であるべきだ」
トルコ旅行代理店協会(TÜRSAB)会長バシャラン・ウルソ氏イはクレリ士官学校を民主主義博物館として使用することを提案した。ウルソイ氏は約20年前軍事地区を都市から分離することを提案したことに触れ、「クレリにはとても素敵な民主主義博物館になってほしい。民主主義博物館はヤッスアダに作られる予定であっ たが、個人的にはヤッスアダは季節やアクセスといった面で困難な場所である。」と述べた。ウルソイ氏は他の提案として、建物が博物館とホテルの両方の機能でも利用できるだろうと語った。7月15日の出来事が未来の世代へと語り継がれる必要があると強調し、「ホテルとして、また博物館としても使用できる。今回の出来事は独立戦争で経験した試練や苦難と同じようなものであった。我々の傷が癒され、経験した出来事の大きさを将来の世代に伝えていくべきである。」と 話した。
■クレリ士官学校の歴史、1845年から
イスタンブル百科事典においてクレリ士官学校についてケナン・サヤジュ氏が著した記事によると建物の基礎が1845年に作られ始めた。1872年にはクレリ軍事高等学校として呼ばれはじめたこの建物は2年間クレリ兵舎として使用された。その後、1877年-1878年の露土戦争がきっかけで兵舎は病院として使用され、活動はパンガルトゥにある軍事学校で続けられた。1913年末には再び元の兵舎に戻ったものの、1920年3月16日にイスタンブルが連合国軍に占領され、イギリス人が物流用などの倉庫として使用するため空にされ、更にその後アルメニア人孤児院としてアルメニア人に譲渡された。1923年に再度ク レリ兵舎へと戻され統一法によって1924年-1925年においてクレリ高校という名の国民教育省管轄公立高校となったが、1925年に再び以前の用途と して使われるようになり今日までクレリ士官学校として使用されていた。
■大臣、生放送で声明
国防大臣フィクリ・ウシュック氏は、CNNTürkの生放送で士官学校の建物がどうなるのかという質問に答え以下のように語った。
「現段階で決断は出ていない。これらの精神的価値は承知している。卒業生にとっての価値も承知している。これら全てを評価し決断を下したい。」
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( 翻訳者:入口 愛 )
( 記事ID:40981 )