■アラブの科学を救うのは西洋の模倣ではなく知的批判の確立(3)
【マグディー・ユースフ】
■科学と同様に演劇でも
このような文脈で、チュニジアの芸術から得られた現状を凝縮した経験を想起できる。20世紀末、西洋文化に追随する感情からの脱却を求めて、一部の舞台監督は、日本の演劇である「歌舞伎」の技法を模倣するに至った。だがこれは、演劇の上映方法や装置に関して、チュニジア社会の歴史の現段階における独自性から湧き出た答えを探す努力には基づいていなかった。このことは、アラブ・マグレブ文化に今なお圧倒的な影響を与えるかつての植民地支配に服従する感覚から抜け出そうとする試みに、かなりの程度集約される。ヨーロッパの専門用語による演劇で起きていることは、自然科学や社会科学における研究の方向性と変わりはない。というのは、そこでの「学問」の目的は、西洋人がたどり着いたものの真似をし、「現代への参入」として「西洋に追いつこうとすること」なのである。一方で、こういった方向性こそ、自らの独創性や創造性を阻害し、後進性と西洋追従を固定化させるということに、多くの人が気づいていないという事実がある。恐らくは、外国のあらゆる解決法に従うという国内のニーズを満たすことにしか役に立っていない。
さらに悲嘆すべきは、批判的な思考のない西洋追従の問題に関する批判的思考が、グローバル化信奉者―より正確には、西洋基準のグローバル化を信奉する者たち―の恨みを掻き立てていることである。彼らは、それを異なる思考のための端緒とする代わりに、激怒し、否定的な問いを投げかける。アラブの学界から「ソーシャルメディア」に至るまで、彼らのグループからは、「代替は何か」「我々は自ら何も創り出していないのに、現代の文明の要因やツールを拒むのか」「西洋が今日の世界の進んだ科学研究を支配している一方で、我々のもとにある付加価値とはそもそも何なのか」といった類の問いが出てくる。
西洋の覇権に降伏し、その経験を「絶対的な模範」と見なすことから始める浅慮な答えを採用する代わりに、このような問題に対して批判的な思考をしたらどうであろうか。西洋の経験への対処は、傾倒と降伏、理性の麻痺、そして、批判と真の知の確立のための険しい道程を歩むことに尻込みすること以外に行われていない。
*比較文明学教授(ブレーメン大学、ドイツ)
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( 翻訳者:二見咲穂 )
( 記事ID:42850 )