スルタン・セリムの上衣をなぜアメリカは望んだのか?ーユナルAKP副党首の主張
2018年03月03日付 Hurriyet 紙
公正発展党(AKP)のスポークスマンでもあるマヒル・ユナル副党首は、文化観光相時代にスルタン・セリムの上衣を修復のためアメリカへ運ぶよう執拗に求められ、自身もこれには反対したと述べつつ「スルタン・セリムの上衣は、そもそも地位の高いカリフの象徴である。この上衣を、7月15日以降トルコを訪れる際に来てくるつもりだったらしい」と発言した。マヒル・ユナル副党首は、カフラマンマラシュ県知事に選任されたお祝いにオメル・オルチ・ビラル・デブギジ氏のもとを訪れた。デブギジ氏並びに支援者らに祝福の言葉を伝えたユナル副党首は、その後党員らと一堂に会した。
■「アフリーンに侵攻しなければ、彼らはここに来るはずだった」
トルコに大きな闘争をもたらしたと述べるマヒル・ユナル副党首は、アフリーンで進む「オリーブの枝作戦」について総評を述べつつ以下のように発言した。「もしわれわれがこの闘いを『ユーフラテスの盾作戦』によって行っていれば、そう『オリーブの枝作戦』でこの闘いを行わなければ、彼らはこの闘いを、この戦火をトルコ本土まで広げていただろう。もしわれわれがジャラーブルスやアル・バーブへ赴かなければ、もしわれわれがアフリーンへ行かなければ、彼らは何をするつもりだったのか。彼らはここに来ていたはずで、ここに来てその戦火をトルコ内部へと引き入れていたはずだ。さらには、現在も国境の安全を守るため、且つ国内の安全を守るためという名目でわれわれは大きな闘いの中に身を置いているのだ。」
マヒル・ユナル副党首は祝福の訪問を終えた後、トルコ青年財団のカフラマンマラシュ支部によって主催され、イスタンブル大学神学部の教員であるエクレム・デミルジ教授とともに行う「若者たちの文明の想像力」と第さ入れた講演のためメフメト・アキフ・エルソイ文化センターへ赴いた。会場ではマヒル・ユナル副党首の側に、レジェプ・タイイプ・エルドアン大統領が党のカフラマンマラシュ県大会で講演を行った際に側に呼ばれて涙を流したため「ボルドー・ベレーは泣かない」と発言した6歳のアミネ・トゥラシュちゃんも来ていた。今回もまたボルドー・ベレーの制服を身にまとった少女は、彼女が描いた絵を見せた後にマヒル・ユナル副党首やオメル・オルチ・ビラル・デブギジAKP県代表の手にキスをした。コーランの朗読によって始まった講演プログラムでは、アミネ・トゥラシュちゃんも詩を朗読した。
■「上衣を執拗にアメリカへ運ぶよう求めた」
マヒル・ユナルAKP副党首とエクレム・デミルジ教授が、講演に入った。最初に発言したマヒル・ユナル副党首は、ホジャらの社会における重要性や彼らへの敬意について言及し、誰もが知るオスマン時代の皇帝スルタン・セリムと、彼のホジャであるイブニ・ケマル師との間に起きた上衣に泥がはねた物語について語った。
何世紀も前に起きた上衣の物語が、自身が文化観光相を務めた時代にも続いていたと話すユナル副党首は、以下のように述べた。「チャルディランへの旅の途中、イブニ・ケマル師の踏み出した足からスルタンの上衣に泥がはね、その瞬間にイブニ・ケマル師に緊張が走った。なぜなら、スルタン・セリムは非常に高貴な方であったからだ。師の様子を察したスルタン・セリムは、『師よ、あなたの踏み出した足からはねた泥は、私にとっては名誉だ』と述べ、その泥のはねた上衣を師へプレゼントした。そして次のように伝えたという。『この上衣を、私が死んだら棺桶の上に掛けてくれ』と。では物語をこれで終わったのか。物語はここでは終わらなかった。私が大臣を務めた時、この上衣を執拗にアメリカへ運ぶよう彼らは求めた。私は『この上衣をなぜアメリカへ運ぶのか』尋ねた。彼らは、『この上衣は古く、生地の修復専門家らへ上衣の修復をしてもらう必要があるのです』と彼らは答えた。私は続けて『この上衣はアメリカへは行かない。国内で修復師を見つければいいだろう』と言い、トルコで生地の修復師を探し出させた。アメリカへ上衣を運ぶことはなかった。その後、なぜアメリカへ運ぶよう求めたのか、その理由が判明した。それはペンシルバニアにあった…この上衣は、同時に正当な支配権をも意味している。なぜなら、みなさんご存知のように当時はマムルークに3つの大きな国家が建国され、カリフ権をスルタン・セリムがイスタンブルへともたらしたのだ。この上衣も、もともと地位の高いカリフの象徴だ。つまり、その理由とは7月15日以降にトルコを訪れる際、この上衣をまとって来るつもりだったのだ。このような物語がスルタン・セリムの上衣にはあり、これも後から判明したことなのだ。」
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:44447 )