民主統一党/人民防衛隊(PYD/YPG)は2012年にアフリーンを占拠した。安全保障関係者の情報によると、アフリーンを支配しようとした同組織は、カンディルから500人の武装テロリストを送り込んだ。6年の間で組織の戦闘員数は次第に増えていった。この数字の増加について、組織の強制的な徴兵政策も影響しているとの見方がなされている。トルコ国軍・自由シリア軍勢力は、オリーブの枝作戦において最終的に3月18日にアフリーン中心部に突入し、同地域におけるPYD/YPGの6年に及ぶ支配に終止符を打つに至った。
憂慮されているのは、テロ組織のメンバーらがアフリーンからどのように、なぜ逃げざるをえなくなったのか、そしてどこへ逃げたのかということだ。
■どのように、なぜ逃げざるをえなくなったのか?
ヒュッリイェト紙に情報を寄せた安全保障関係者は、組織が強制的に動員した人々をジンデレスやラジョといった要衝の前線で戦わせていることがPYD/YPG内部の崩壊の理由である、と述べている。つまり組織の最初の崩壊は、ジンデレスやラジョのような重要地点でトルコ国軍(TSK)・自由シリア軍(ÖSO)が勝利したことによって始まったのだ。3月18日の約10日前、こうした崩壊に対してカンディルは「死ぬまで前線に留まれ」という指示を出した。さらに安全保障関係者が掴んだ情報によれば、やはりカンディルの指示により、逃亡を試みた者たちに対して「組織のための粛清」が行われ始めた。これが、アフリーンにおけるPYD/YPGの崩壊に拍車をかけた。
掴んだ情報によると、トルコ国軍と自由シリア軍がオリーブの枝作戦に成功を収め、すべての戦略的拠点を奪還し、アフリーン中心部を完全に追い詰めたのち、カンディルのテロ組織は構成員に「撤退」の指示を出した。3月18日の約6日前に始まった脱出は、最後の3日間で一層激化した。4千人から5千人におよぶテロ組織メンバーがタル・リファトとアレッポを通ってマンビジュへ移ったとの情報がある。関係者は、マンビジュとユーフラテス川東部の間で移動していると見ている。アフリーンから来た者以外に、マンビジュにも1500人ほどのテロリストがいるとの情報も出ている。
■組織の卑劣な計画を一蹴
アンカラでは、アフリーン作戦によって重大な進展があったと言われている。トルコ国軍と自由シリア軍が作戦に成功したことで、組織が2012年以来手中に収めていたアフリーンからの逃亡を余儀なくされたことが注目されている。「YPG/PYDは市街戦というリスクを冒せなかった」ことが確認され、テロの流れを断ち、トルコ国境の一部からテロの脅威を排除したこともまた、作戦の重要な成果として挙げられている。安全保障関係者が関心を示すもう一つの情報は、組織が観光シーズンに向けた活動を計画していることに関するものである。同関係者の情報によると、組織はアマノス山を通って観光シーズンを麻痺させるという活動を計画していた。アフリーンの掃討によって、テロ組織のアマノスとのつながりも断絶されるに至った。
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( 翻訳者:金戸 渉 )
( 記事ID:44517 )