トルコ文学:フェミニズム論者が待ち望んだ書籍『ガフレット-怠慢』が出版
2019年10月25日付 Hurriyet 紙


セマ・カイグスズ氏とデニズ・ギュンドアン・イブリシム氏が編纂し、数多くの学者の評論を纏め上げた書籍『ガフレット/現代トルコ文学におけるセクシストの神経末端』は、様々な文学の素材をフェミニストの見地から批評をおこなっており、トルコ語の評論における巨大な空白を埋めている。

フェミニズムには、古にさかのぼる歴史が存在している。
伝説によればリリスはアダムの最初の妻であったが、アダムは自分を彼女より上位の存在であると考えている。リリスもこの考えには反対し、最後まで抵抗する。しかしながら遂にはアダムの抑圧に耐え切れなくなり神が禁じた名前を口にして天国から逃れた。その日以来、男性は不当な抑圧を女性に強要するようになったという。
この闘争を、「生活の存在するあらゆる場所で闘いたい」という言葉に集約したのはクララ・ツェトキンである。

ルーツをこれほど昔にまで遡ることが出来るフェミニズムは、3つの潮流の形で進展をした。最初の潮流は、市民法の改正と政治的権利が要請されるという形で表出した。
第二の潮流はというとセクシュアリティと生殖能力を分け隔てる形で形成された。
第三の潮流はというと独立した女性のアイデンティティを生み出そうとする試みである。フェミニズムの歴史のプロセスと並行するように文学のムーブメントも3つの潮流によって形づくられた。ベルナ・モラン氏は、『文学理論とその批判』という書籍の中で、最初の体系は1840~1880年代のことであり、この体系においては女性の作家たちは男性作家たちを模倣していたと述べている。第二の体系はというと1880~1920年代の間のことである。この時代では女性たちはフェミニスト的な意識で家父長的な記述を離れて男性支配に抵抗をするようになった。
1920年代以降続いている、最後の潮流ではというとそれぞれの作家にとって特有の美学を追い求めるようになる。さて、この点で性のアイデンティティはどれであれ、私たちが敬愛している文学者たちはどの程度、成功をしているのだろうか?「ガフレット」は、この疑問への、一つの答えを提示しているという特徴を持つ書籍である。

まずは書籍の名前から初めてみよう。トルコ言語協会(TDK)の辞書では「ガフレット(Gaflet)」という単語は「怠慢」という意味である。しかしセマ・カイグスズ氏はこの問題を、「犯人の最後の願い」という記事で解説をしている。
「ガフレット」はフランス語の‟gaffe”、つまりは「ポットを壊す」という意味の単語由来ではなく、アラビア語由来の「誘惑(iğfal)」という単語に由来しているものだと強調している。このような繋がりで'gaflet'という単語は、「陥り欺かれる、暴力を行使する、欺いて手に入れて強姦する」といった意味になったと述べており、本で単語のあらゆる蓄積が調査されたということを強調している。文学の文章において「怠慢」を探し出すことは、同時に文学の価値を机上に乗せるという意味である。

■「私たちは文学を過当に神聖化してはいないか?」

カイグスズ氏は、「果たして、国と政府の主導で何年にもわたって行われている文化的な破壊行為に対して、それが無自覚な動機によるものだったとしても、私たちはただ反対の価値を許容してしまうことで文学を過当に神聖化してはいないだろうか?」と問いかける。
この問いかけは、トルコ語の批評においてあまり問われてこなかった問いかけだ・・・
‟セクシストの神経末端を検証する”この本で、アフメト・ハムディ・タンプナルからイフサン・オクタイ・アナル、フュルザンにまで至る数多くの作家の仕事が検証されている。
見て取れるように、本は男性作家だけではなく、女性作家たちの作品も扱っている。取り分け、トピックとなる各作家たちを貶めないように力が注がれたということにも言及されている。
全ての批評について言及することが困難なことであったとしても、そのうちの幾つかに重点的に触れることの本の理解における重要性が訴えられている。
ジャレ・オザタ・ディルリキャパン氏の「タンプナルのリビドーの愛の犠牲となった女性たち」という題の批評を、例えば取り上げてみよう。ディルリキャパン氏は、タンプナルの諸作において、「自己中心的な」強調が存在すると述べている。これを端として、タンプナルの男性キャラクターが女性キャラクターを理想化していることが、性的な喜びを描く記述を生み出すことへ強力に結びついていると指摘している。
『平穏』のミュムタズのヌーランに対する見方から、『舞台の外の人々』のイフサンのサビハに対しての見方にまで至る数多くの箇所が検証されている。タンプナル作品の男性キャラクターの数々は、ある一人の女性へとその身を捧げて彼女と完全に一体になることを望んでいるが、その願望は常に(性的な)喜びとセクシュアリティとに結びついてしまう。
ムナ・ウルガン氏は『ある恐竜の回想』という書籍の中で、タンプナルは既婚の女性たちに対してプラトニックな愛を育んでいると思い込んでいた、と述べている。
タンプナルがその日記において、彼が隣人の少女が鳩たちに餌を与えている姿をどれほどの喜びをもって眺めていたのかということを、その瞬間をどれほどまでに待ち焦がれていたのかということも私たちは読み取れる。
同じように、アフメト・ムヒプ・ドゥラナス氏もタンプナルから聴講した「モナ・リザ」についての授業を以下のように要約している。
「ハムディはまだ青年だった。そしてその手を振り回しながら、接吻に溺れてしまうように解説をしていたのだ。」
簡潔に言って、つまりは文学の界隈で「魅力的」とされている様々な文章を検証しているのだ。

■「父親的な批評家」

オルハン・パムクの『赤い髪の女』という小説に移ってみよう。
デニズ・ギュンドアン・イブリシム氏の「フェミニスト言論の転換の力」という題の批評において興味深い指摘を私たちは目の当たりにする。小説において左翼的な思想の持主であるにも関わらず、幸福でそして結婚をしているギュルジハンというキャラクターが存在している。イブリシム氏は、作家がギュルジハンを力ずくで井戸へと追いやり、彼をいつまでもそこに留まっていたがる、幸福の象徴に仕立て上げている、と書いている。
加えて、その力を証明するために父親としての存在をある井戸の中で殺してしまうジェムというキャラクターに私たちは出会う。ジェムは、息子のエンヴェルによってその井戸口で「偶然に」殺された、という事もイブラシム氏は強調している。
注意深い視線は、男性の間でおこる主導権争いが小説全体を貫いているということを読み解く。フロイトはこのことを「ペニス羨望」と言っている・・・
女性はといえば、この「羨望」の中に溺れてしまい、所有物となることを幸福であると感じる存在になってしまっているのだ!
最後には、エロール・キョルオール氏のエリフ・シャファクの小説『愛』についての『誤って娘を殴る父親的な批評家』という記事では、異なる点について言及をしている。キョルオール氏は、小説『愛』において行われた批評について言及している。ここではノエル・キャロル氏の『批評について: 芸術批評の哲学』という本を端として、批評家の任務は作品を、客観性に基づいて、その理由を提示しながら評価することであると強調をしている。デュジャネ・ジュンディオール氏とシュクル・アルグン氏の、本に関しての批評の数々を、「父親的な批評家」のタイプに戻ってしまった、問題のある批評であると述べている。
また一方でこの本は一つの小説作品ではなく、個人的な成長の本として扱われる必要があること、またひとつの商業的な生産物であるということを指摘している。

要約すると、『ガフレット』は、その性別がどちらであろうとも数多くの作家が、更には批評家が、その記述において無意識にもしくは意識的に、男性が支配的なシステムに対してどのようにして奉仕したのかということを明らかにしているのだ。これと同時にトルコ語文学の価値もまた俎上に載せている。
これら全ての特徴によって、フェミニスト論者たちが待ち望んでいた本となったのである。本のその他の特徴といえば、カイグスズ氏が述べたように、「フェミニズムに抵抗するためには、よりよく考えられたフェミニズムを提示する以外に策は存在しないということを再認識すること」であるのだ。アンチフェミニストの見解をファシストのアプローチで続けている思考の持ち主が読むべき書籍なのである・・・

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:47968 )