Deniz Bayramogluコラム「タリバン代表団のサンダル」
2021年10月17日付 Milliyet 紙
先週、タリバン上層部からなる代表団がトルコを訪れた。今回の訪問も多くの観点から批判を受けたし、もちろん我々もあらゆる観点から批判することもできる。しかし一方で、国家であるための必要条件として、他の国家との関係を構築し、既存の関係をうまく扱っていくという義務があることも忘れてはならない。現代世界では、どの国とも一切関係がないということはありえない。また事実として、こうした関係性を一方向、一次元、あるいは一軸にすることも不可能だ。ある分野では協力している国家と、別の分野では敵対しているという状況はもはや普通のことだし、時には必要ですらある。では我々はどうすればよいのか?ロシアやイランから天然ガスを購入しないようになるのだろうか?トルコにそんな余裕があるか?私はこの例えを理想的な状況として用いるのではく、むしろあまり好ましくないが現実に起きている状況を説明するために使う。いつもニュージーランドと関係をつくれたらいいのにと思っている。他の国を必要とせずに。しかし残念ながら、「価値ある孤独」などといった概念が存在する場所は、国家間の関係で成り立つこの世界にはない。つまり私のような人間の居場所も.....。
タリバン代表団のトルコ訪問も、この意味では火のついたシャツ(厳しい試練)とでも言える。一例を上げれば、ウトゥク・チャクルオゼル氏は、31人の代表団メンバーのうち18人が国連のテロリスト一覧に載っていると発言した。これがたとえば、トルコにとって悪影響を及ぼす状況か、そうではないのかを懸念しているということだ。さて、歴史的なつながりと、今も続くトルコの「共感」を除くと、アフガニスタンとの共通点があるようにすら思えない。(共感は)ハナフィー-マートゥリーディー学派の伝統から来ているものだが、これは実際の場ではほとんど意味をもたない。というのも、我々が信仰と呼ぶものは、その根底に文化、伝統があり、そして何よりも重要なのは客観的な条件の影響下で形成された一つの秩序なのであるから。
そして、この指摘した諸要素は、トルコとアフガニスタンの双方にとって、日々の慣習的な信仰の実践と根本が非常に明確な形で差異化されるのに十分なほど、長い時間をかけて、多様な力学のなかで形作られてきた。
さて、カブール空港の問題を考えてみたい。私はアフガニスタンやその地域の政治に常に関心を寄せてないとしても、まったく無関心であるとも言えない。
しかし、いくら自分で考えても、他の人の説明を聞いても、リスクがリターンを上回る空港(カブール空港)を運営することがなぜそれほど重要なのかということについて、納得のいく結論に達することができなかった。
つまり、ひとつ言い始めたら、批判すべき点は多々出てくるのだ
とはいえ、私に言わせれば、今回の訪問は我々の中にある「植民地主義的」視点を、再び我々にたしなめさせたという点で重要だったと思う。特にSNSで、我々がよく知っていて信頼し尊敬している人々の名前がこの(植民地主義的視点を持つ)行動の中に加わっているのを見るのは残念だった。タリバン代表団が伝統的な衣装で、しかも足元がサンダルだったという事実は、際限のない騒動(物笑い)の種となった。
彼らは徹底的に侮辱された。我々はきれいにひげを剃り、アイロンのかかったスーツを着た時代相応な服装だったが、彼らはといえば、ひげ面に白いローブ、そしてサンダル履きという後進的でオリエンタルな装いだった。
誤解を招きそうなことを言っているのはわかっている。それでは、以下のように言いなおそう:心配しないでもらいたい;すなわち、「ひげ面、ローブ、サンダル履き」と言った部分を、「ひげのない顎、英国産SUPER160'sの生地をつかったイタリア製のデザインスーツ、革靴」としても何も変わらない。この特徴づけ(類型化)については多くを目にしてきたので、このことを容易に言うことができる。それに一人の人間を、国や文化をこんな風に高みから発言し侮辱するということは、我々をそうした思考の在り方(植民地主義的思考)の近くの位置させているのである。
要約すると、タリバンを認識する際にみなさんには非人道的だと見なす権利もある。私もそのようにとらえている。 タリバンのトルコ訪問を批判する権利もみなさんにはある。私も批判する。 しかし、自身の政治的-信仰的スタンスを道徳的規範として扱うことはできない。とりわけ、それに基づいて他人やその文化を侮辱することはできない。それはレイシズムにあたるからだ。レイシズムは私の理解では精神的な病の一種でもなければ一つの信念でもない。 レイシズムは犯罪である。
■ソーシャルメディアの正義
あれは約1年半前のこと。女性研究者がSNSに、長い間、同僚の研究者から嫌がらせを受け続けていると書いた。その後、別の女性研究者もそれに続いた。彼女もまた、同じ人物が彼女に嫌がらせをしたと告白した。その後、実名が出た。リンチが始まった。リンチは前述の研究者だけに限らず、別の人物らにも広がった。この事件は法廷に持ち込まれ、そして先週、スウェーデンの司法が判決を下した。前述の男性研究者はこの判決の後に動画を投稿し、判決は徹底的に彼の無実を明らかにしたと述べた。さらにこれらはすべてSNS上で公に流された。私もSNSでフォローした。その後の顛末は恐ろしいので書かない。女性の権利をめぐって、おたがいに最も性差別主義者的な侮辱や呪いをしあった事件だとでも思うだろうか、あるいは嘘や荒らしアカウント、加工された文書だとでも・・・。 あなたの探しているものはなんでもそこにあるのだ。
一方、何が欠けているかは知っているでしょうか。 こうした一連の出来事が、女性の権利のための闘争や、「女性が声を上げることは不可欠である」という原則にどれだけ大きな損害を与えたかを考えること・・・それだけが欠けている。
被告と原告とは脇に置いておこう。彼らにとって、これらは本当に個人的な問題だからだ。ではそれ以外はどうだろうか?
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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:51718 )