ギュレン派クーデター6周年、犠牲者慰霊日に殺到
2022年07月15日付 Milliyet 紙


7月15日のクーデター発生から6年目で7月15日犠牲者慰霊碑に訪問者が殺到した。

2016年7月15日に起こったクーデター発生から6年目に7月15日犠牲者慰霊碑に訪問者が殺到した。7月15日の「民主主義と国民統合」の日に関連して慰霊碑で犠牲者が追悼された。

「7月15日犠牲者の橋」のアナトリア側にある慰霊碑の中に位置する「7月15日記憶博物館」へも犠牲者の近親者や市民が深い関心を示した。

■「私たちにとって大きな勝利だ」

慰霊碑を訪れたディレキ・ディンチさんは「言うことはあまりない。口にしても気分が悪くなる。私たちにとって大きな勝利だ。死の淵から生還したようなものだ。外に出られなかった。私の夫や義理の姉妹たちは皆空港へ、橋へ走って行った。私は家にいたため非常に悲しかった。私は自分で物足りなさを感じていたが、それから娘を連れ毎日通りに出た。私たちの指導者(エルドアン大統領のことと思われる)へ神が長い人生を与えますように。幸いにも指導者は私たちを家に引き留めはしなかった。」と述べた。

訪れたアイテン・アイナさんも「非常に複雑な感情だ。あの夜、犠牲になった方々のご冥福をお祈りする。彼らがいなければ私たちの国の状況はどうなってしまっただろうか?私はあの夜を思い出すと今でも鳥肌が立つ。」と語った。

■「エセンユルトから歩いてきた」

昨夜21時半にエセンユルト・レジェプ・タイイプ・エルドアン公園から友情行進を開始したことを語ったトカット15歳の者の子孫協会会長サッフェト・ギュミュシュさんは、「9時間でここに来た。50キロメートル、7万5000歩を踏んだ。私たちは彼らに大変借りがある。私たちは祖国へ、国旗へ、国家へ寄り添う。あの夜彼らがいなければ、民衆がいなければ、今おそらく私たちはここにいられなかっただろう。」と述べた。

■「戦ったり、死ななかったことは非常に悔しい」

コンヤから来たイスマイル・オンデルさんは「テレビをつけると指導者(エルドアン大統領のこと)が話していた。皆を通りに誘っていた。私たちは空港へ向かった。ここへ来られなかったことを悔しく思う。私たちの義務だった。毎年7月15日にここへ来てすべての活動にイスタンブルで参加している。あの日はここへ来て戦えず心が痛む。ここへ来て戦ったり、死ななかったことは非常に悔しく思う。」と述べた。

■勇者の父、バシュプナル:もう一度起こったら、彼らが通りで死ぬ

勇者サフィイェ・バシュプナル・バヤトさんの父、エンギン・バシュプナルさんは、

「私は毎回通るときにここで車を停め、犠牲になった人々へ、天国のバラを供えに来ている。私たちは第二橋にいたが私の娘はここで将校たちと言い争うなか、彼らへ「今夜あなたたちは負けるだろう」と言ったとき、彼らは抑えられなかったようだった。私の娘が負傷者を助けている際に弾丸が頸椎を砕き、貫通していた。私は娘が負傷したことを1日たって知った。誰もこの種の痛みはわからないだろう。これにつけこもうとする人たち、この国を裏切ろうとする人たちは、今日犠牲者や勇者たちの前で何を言うのか、と考えている。犠牲者たちがいなければこの国は存在しただろうか?良い人間になるつもりであるし、お互いに手を取り合い、この国に貢献するつもりである。この国を奪おうとする人々は恥じるだろう。もう一度この試みがあっても、通りで死ぬのは彼らだということを理解しますように。」と話した。

(注)15歳の者(onbeşli)とは、第一次世界大戦中の1915年チャナッカレ戦線に出征した、当時15歳頃の若者を指す表現と考えられる。

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( 翻訳者:大屋千寛 )
( 記事ID:53756 )