2月6日に発生した大地震からちょうど一年。被災地の傷は癒えても心の痛みは変わらない。CNNトルコ放送局チームは地震発生から1年経った今日も、災害直後と同じように現場に立っている。地震で親族11人を亡くした公正発展党のヒュセイン・ヤイマン議員(ハタイ県選出)は、CNNトルコ放送局特別報道部長のフルヤ・オズチュルク氏に対して、この一年の歩みを語った。
ヤイマン議員の発言は以下の通り。
「我々はいつもこう言ってきた。これは単なる地震ではなく神の黙示(意志)だと。改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げる。震源はカフラマンマラシュだったが、最大の被害を受けたのはハタイ県であり、アンタキヤ県だ。この場所はイスタンブルでいえばベイオール地区やイスティクラル通り、ベヤズット広場だったと考えてみてほしい。そのぐらい大きな広場があり、何千人もの人があふれる本当に活気のある通りだった。それが今はご覧のとおり誰ひとりおらず、どこもかしこも荒廃し、瓦礫の下だ。
(去年の)2月6日から今までどんな気持ちでいるか、何があったか? あの日は今日のような雨降りだった。90秒間も続いた地震。この世すべてが揺れたかのような地震。やはり地震というより、あれは神の黙示だった。あの日からのことを振り返ると、「フセイン議員、私には何もわかりません、なにかおっしゃってください」と言われるたびに、私はもっぱらこう答えてきた。言葉がない、泣きたい、と。それほどまでに深い悲しみを経験した。亡くなった人々、親戚、若者、子どもたち、母親たち、家族たち……。私はここでは政治家としてではなく、ひとりのハタイの子として話をしたい。ハタイの苦しみは本当に大きい。ハタイは甚大な破壊を受けた。叶うなら、我々の唯一の願いは、この街をともに立ち直らせたいということだ。
■なぜ今も瓦礫が残されている?
ここはいわれのある街……だからこそ、この区域、この立地に歴史的建造物があった。『登録文化財! 許可なく触らないで!』ということだ。そうすると何が起こるか? ひとつひとつに印と番号がつけられ、撤去され、この地はあらたにつくられることになる。
■被災地に建設される住宅
家は建てられるのか、建てられないのか……、様々な議論があった。しかしトルコ全土が被災地に家が建てられる様子を目の当たりにした。ハタイでは住宅4万戸分の基礎工事が行われ、うち1万戸が分譲されている。2万戸は1か月以内に分譲予定で、さらに1万戸が分譲される。しかしこれで十分かと言われるとそうではない。
我々は今、人々に住宅の鍵を手渡している。ここに22万戸の住宅を建てる。
ここには成し遂げられた仕事があり、進行中の仕事があり、そして今後やるべき仕事がある。つまり、我々は2月6日に神の黙示を経験したが、そのことを声高に訴えたり、このことで同情を買うための言葉を述べたいわけではない。これは大地震であり、それ以外の何ものでもない。我々の国家も国民も本当に偉大だ。地震発生日はトルコ全土が涙にくれた。
しかし私は受け入れる……もしあなた(取材チーム)が、ハタイ地震の規模(甚大さ)を世論に伝えきれなかったと言うなら、私は今日でさえもハタイで起きた大きな神の黙示を伝えきれないと言おう。それほど巨大な地震を我々は経験したのだから……今ですら一部地域で電話が不通であるといったような非常に深刻な通信障害が発生しているのだから。
地震は我々に次のことを示してくれた。地震は我々全員を立場に関係なく飲み込んだ。
私はあの時もたしかにこう言った。心が張り裂けそうで、泣きたい、悲しい。天にも地にも居場所がなくなった。そんな地震を経験してしまった……人々の憤激や怒りや日々のなんでもない出来事は今も続いている。我々はもう断層線の上に家を建てるべきではない。あるいは河床に家を建てるべきではない。この点では政府をはじめ全員に責任があるが、最大の責任は我々個人にある。
主要な問題、優先すべき課題として、仮設コンテナでの生活は非常に困難だということが挙げられる。寒い上に子どもが3人いることを想像してみてほしい。20平米のコンテナで子どもたちとともにどうやって暮らせるだろうか?
冬は非常に寒く夏は非常に暑くなる。目先の課題は、市民を一刻も早く恒久的な住宅に移すことだ。
昨日、エルドアン大統領が視察にいらした際、大統領にもそのことを申し上げた。
ハタイ空港は滑走路の7か所が破損した。現在、航空機は着陸できるが満員の飛行機は着陸はできない。離陸することはできる。着陸時にまた地面が割れる可能性があるからだ。同じ場所に新たに空港を建設することになる。滑走路を撤去し、新しいものを建設する。
それに加えて、アマノス・トンネルの入札が行われ、その向かいに大規模な工業地帯が建設される予定である。」
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( 翻訳者:原田星来 )
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