イラン新大統領にトルコ系ベゼシュキヤン
2024年07月06日付 Cumhuriyet 紙


改革派の政治家であるペゼシュキアン氏は1954年9月29日にマハーバードのイラン系トルコ人の家庭に生まれ、トルコ人としてのアイデンティティに誇りを持っていると常に言及してきた。同氏は妻と息子を交通事故で亡くし、温厚かつ毅然とした人物として同情を得た。

イランで行われた第14期大統領選挙でマスード・ペゼシュキアン氏が保守派候補のサイード・ジャリリ氏に勝利し、同国の第9代大統領となった。同氏は政治的背景によってのみならず、その独自のスタンスによっても際立っている。
改革派政治家であるペゼシュキアン氏は1954年9月29日にマハーバードのイラン系トルコ人の家庭に生まれ、トルコ人としてのアイデンティティに誇りを持っていると常に言及してきた。
ペゼシュキアン氏の名字はペルシャ語で「医者」を意味し、タブリーズ大学医学部を卒業した。1980~1988年に起きたイラン・イラク戦争で戦闘員および医者として任務に就いた。
実践コースを1985年に修了したペゼシュキアン氏は戦後、タブリーズ保健科学大学で一般外科を専門として教育を続けた。
タブリーズ保健科学大学で1993年に心臓外科の専門医となったペゼシュキアン氏は、1994~1999年にタブリーズ保健科学大学の学長を務めた。

■妻と息子を交通事故で喪う

ペゼシュキアン氏は1994年に妻のファトマ・メジディさんと息子を交通事故で亡くし、遺された息子2人と娘1人を一人で育て、再婚しなかった。ペゼシュキアン氏はこの喪失と自己犠牲のエピソードによって、彼が温厚で毅然とした人柄だと感じるイラン社会の多くの人から同情と尊敬を得た。
ペゼシュキアン氏の政治家としての歩みは、ムハンマド・ハータミー元大統領時代の1997年に副保健相として任命されて始まった。その後ハータミー大統領時代の2001年に保健相に任命され、2005年まで務めた。
ペゼシュキアン氏はイランで2008年に行われた総選挙でタブリーズ選出国会議員として当選し、それから現在までに5回タブリーズの代表を務めた。

■厳しい批判を控えず、欧米諸国との良好な関係を擁護

ペゼシュキアン氏は野党に対する政府の態度を厳しく批判した。2009年の大統領選後に発生した事件を受けて、ペゼシュキアン氏は国会で治安部隊の介入を批判する演説を行い、保守派議員と緊張状態を起こした。
ペゼシュキアン氏はイランでの2013年大統領選で立候補申請を行ったが、後に立候補を取り下げ、2016年からイラン国会副議長として4年間務めた。この過程で、核合意や欧米との良好な関係を擁護した。
2021年選挙でのペゼシュキアン氏の立候補申請は護憲評議会によって却下された。3月1日に行われた国会議員選挙ではタブリーズ選出国会議員として再選された。

■マフサ・アミニの死後の声明

イランで2022年9月にマフサ・アミニという若い女性が警察の拘束中に死亡したことを受けて、ペゼシュキアン氏は国営放送の番組に出演し、女性たちへのヒジャブ義務付け法に起因する介入が状況を悪化させたとし、終わらせなければならないと述べた。
ペゼシュキアン氏は「私たちは子供たちが純潔であることを望んでいるが、この態度が彼らを宗教から遠ざけるのならば、この方法を続けてはならない。」と述べた。

■経済と司法についての問題を解決すると約束

ペゼシュキアン氏はムハンマド・ハータミー元大統領、ハサン・ロウハーニー元大統領、ムハンマド・ジャヴァード・ザリーフ元外相といった面々の明確な支持を得て、選挙戦では国内の「民族差別、宗派差別」によるヒジャブ義務付け問題を強調し、経済と司法についての問題を解決すると約束した。
ペゼシュキアン氏はインターネット禁止も大幅に撤廃すると約束し、国内政治と外交での重大な改革と欧米とのよりよい関係を築く必要があると述べた。
ペゼシュキアン氏は2005年以降で初めてイラン大統領となった改革派となった。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:58294 )