テヘランの市民禁制のサッガーハーネはどこにあるのか
2024年07月17日付 Hamshahri 紙


 テヘランのバーザール内のノウルーズ・ハーン階段近くにあるノウルーズ・ハーン・サッガーハーネ[公共の水飲み場であると同時にシーア派信仰と結び付いた場でもある]、は、その建設以来テヘランで最も有名かつ波乱に富んだサッガーハーネのひとつだった。実際、テヘランの異なる場所に二度建てられたこのサッガーハーネは、かつてテヘランの市民禁制の場のひとつとも見なされていた。この禁断の出来事には、一読に値する物語がある。

【ハムシャフリー電子版‐バハーレ・ホスラヴィー】では、この古いサッガーハーネにまつわる出来事とは何か。ノウルーズ・ハーン・サッガーハーネの創建者は、その名が示す通り、ノウルーズ・ハーン・イーシーク・アーガースィーである。サッガーハーネに関する研究者のアリーレザー・アスギャリー氏によれば、ノウルーズ・ハーンは、モハンマドハサン・ハーン・ガージャール[ガージャール朝初代シャーの父]の友人のひとり、アッラーフヴェルディー・ハーン・エッゾッディーン・レヴィー・ガージャールの息子だった。ノウルーズ・ハーンは、ファトフ・アリー・シャーの治世の間、宮廷儀典長であった。このため、彼は持てる権力を行使してガージャール朝の首都テヘラン市の発展に努め、ノウルーズ・ハーン・ハンマーム[公衆浴場]やノウルーズ・ハーン・テキエ[主にシーア派イマームの殉教等に関わる儀礼を行う宗教施設]も創建した。

 ノウルーズ・ハーン・サッガーハーネは、集会モスクへの道筋にあるハラビーサーズハー・バーザールに向かう途中、ブーザルジョメフリー通りの南に建てられた。テヘランで最も古く、最も手の込んだサッガーハーネのうちのひとつで、現在も店舗がひとつ併設されている。このサッガーハーネには、側面の階段を通ってモスクの屋根へと続く道があった。

 アスギャリー氏はインタビューの別の部分で、ノウルーズ・ハーンのサッガーハーネが取り壊されこと話に触れ、次のように述べている。「パフラヴィー1世の時代、テヘラン市を拡大し、ブーザルジョメフリー通りを近代的な様式で建設するため、ノウルーズ・ハーンのサッガーハーネとバーザールが取り壊された。しかし、このサッガーハーネに対する人々の愛着と献身のため、取り壊し後、ブーザルジョメフリー通りの南、旧王のモスク、つまり現在のイマーム・ホメイニーモスクの北側正面の東に、別のサッガーハーネが建てられた。以前の同じ名のサッガーハーネに因んで、人々はそれをノウルーズ・ハーンと呼んだ」

 この研究者はまた、新しいサッガーハーネの創建者について次のように述べた。「シャムソルオラファー師の兄弟で、国民議会の監督者セイエド・キャマール氏して知られたシャイフ・レザーイーが1323年(ヒジュラ太陰暦1363年)[西暦1944/45年]に新しいサッガーハーネを建てた。このサッガーハーネのアーチ型天井の通路全体には、宗教宗派上の偉人たちの聖像画、旗や幟、黒い旗幟が掲げられていた」

 アスギャリー氏によると、ノウルーズ・ハーンのサッガーハーネは、サファヴィー朝期以前に遡る石に足跡があるため、人々にとって非常に貴重で大切なものだった。そのため、国中の人々が願掛けを行うためにこのサッガーハーネを訪れていた。パフレヴィー1世の時代には、人々がこのサッガーハーネで願掛けを行なうことを禁じようと試みられたこともあった。このために窓には鉄格子がはめられ、扉には鍵も掛けられ、テヘランの市民禁制のサッガーハーネのひとつとなった。しかし、禁止されたにも関わらず、人々は祈りを捧げるために依然としてノウルーズ・ハーン・サッガーハーネに心を寄せ、そこで願掛けを行なった。

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( 翻訳者:HA )
( 記事ID:58458 )