■レバノンに対する戦争は、一方の損害でもなければもう一方の利益にもならない
【本紙:ターリク・ミトリー】
西欧諸国や一部のアラブ諸国では、また一部のレバノン人らの見解においても、あたかもレバノンの領土が戦闘の場、戦場であり、それ以上のものではないとでもいうかのように、我々の国で起きている戦争がイスラエルとヒズブッラーの間の紛争であるとして捉えられている。レバノンが他者同士の紛争の場として描かれるのは新しいことではないことは周知の事実であり、この状況は、かつてこうしたイメージを正当化したような、以前の悲惨な現実を想起させる傷だらけの歴史によって生まれている。もちろんレバノンがその現代史のなかで多くの混乱と紛争を経験し、この混乱と紛争が、一部の人が持つ「武装勢力を主とする国内勢力が、外国や外国勢力のために働いており、この外国勢力はレバノンで当局と対立している」という信条を強化したことは事実である。しかしこれまでレバノンが、単に干渉や他者同士の戦争のための場に一度もなったことがないのもまた事実である。たいていの場合レバノン人らは、レバノン国内での紛争、あるいはレバノンに対する戦争においてその役割は異なっていたとしても、これらの戦争の当事者だった。また国内勢力と国外勢力間の相互関連性の様態はつど異なっていたのにかかわらず、戦争のレバノン化を助長したのは、戦争への参加度によらず、レバノン人らはみなその犠牲者となったことであった。
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( 翻訳者:大森耀太 )
( 記事ID:59101 )