マーザンダラーンの参詣地と宗教ツーリズム(1)
2024年12月31日付 Jam-e Jam 紙


 ツーリズムは、地理的・政治的・経済的境界を超え、人種や民族の別を問わず地球上のどこでも人々と共に過ごし、人々を理解できるようにする手段である。ツーリズムの中でも多くの愛好者を持つものの一つが参詣である。参詣は人々の信仰に根差し、太古の昔から思想や宗教の伝播や普及に大きな役割を果たしてきた。

 それゆえ、参詣は、歴史や文化、宗教的価値観を紹介するために活用されて平和的共存を生み出すことに加え、国家間や文化間に友愛の情を育む一つの産業とみなすことができる。参詣者を参詣地に引き付ける要因の一つは、その地域の建築である。イランではイマームザーデの廟建築は、モスクに次いで最も多様で不変の建築様式の一つとみなされている。イランでは、この種の建造物の建設はシーア派的特徴のために他のイスラーム諸国と比べて際立っており、それらの旧跡や建造物、一社会におけるその形成や変化のプロセスを研究することにより、その発展の足取りを評価することが可能である。これら参詣地はイランの都市で中心的役割を担っているため、様々な宗教的行事や特別な社会的行事の発祥地となっており、社会における文化的な営みはこれらを土台としている。また多くの場合、それらは都市の初期の形成と建設、さらには発展の基礎的な土台となってきた。

 マーザンダラーン州は参詣地が非常に多く、旅行者を受け入れるためのポテンシャルを持っており、参詣者やツーリストをも受け入れるのに適した土地である。この州には、ツーリストを引き付ける上で重要な役割を果たしうる参詣地が数多くある。

 大タバリスターン[タバリスターンはアルボルズ山脈以北のカスピ海沿岸地域を指す古称]に位置するこの州は、特殊な風土的条件のために常にイランの他地域で形成された政治的・社会的・文化的な変化の荒波にさらされてきた。この地域[大タバリスターン]はアルボルズ山脈とカスピ海の間に位置し、現在のマーザンダラーン州全域、ゴレスターン州の一部、テヘラン州の東部と北部、そしてセムナーン州の北部を含んでいた。タバリスターンはアッバース朝の中心地から遠かったことでアラヴィー[ハサン・ブン・ザイドのニスバ(出身地や所属部族などを表す由来名)で、この人物はシーア派初代イマーム・アリーの長男ハサンの5世代後の子孫とされる]の一派[アラヴィヤーン;ザイド派]の避難所の一つとなり、彼らの政権の中心地となった。彼らは同地にイランで最初のシーア派政権[アラヴィー朝、またはアリー朝、ザイド朝とも]を樹立した。したがって、シーア派の影響と、この地域の人々の間でシーア派が受け入れられ、その後ふさわしい条件下で他地域に拡大していく過程は、イランの他地域よりもはるかに大規模である。この地域の一部はモンゴルによる攻撃の後、徐々にマーザンダラーンと呼ばれるようになった。山岳地の険しい道など適切な条件のために、ハサン系とホセイン系のセイエドたちの一部もこの地を訪れた。これらセイエドたちはこの土地に暮らし、生を全うした。

 彼らに特別な価値を認め尊敬の念を抱いた同地の人々は、彼らのために聖廟を建て、その名と名声を高めた。聖廟の建設はこの地域に固有の建築様式を利用した一種の宗教芸術を生み出した。セイエドやイマームザーデと呼ばれる人々が地域の人々の尊敬を集めるにつれて、彼らのために建てられる聖廟は高く、記憶に残るものになっていった。聖廟の建築家や芸術家たちは、建設のために主に木材を材料として利用した。マーザンダラーンは多湿で海と山に近いという地理的条件のもとにあり、豊富な木材の蓄えがあった。そのため、同州は木彫り、モザイク、碑文などの木製芸術が豊富に見られる地域の一つとなっている。さらに、この聖所にかかわる芸術家たちは、抽象的な宗教思想を目に見える形で表現したり、それを聖廟の装飾に利用したりすることに大きな関心と重点を置いていた。そのため、碑文や木製のサンドゥーグ[聖域や聖廟内の墓の上に置かれる箱で、木製のことが多いが、時に金属製のものもある]にクルアーンの聖句や宗教的な文言を記すことが多く行われた。芸術家たちは、クーフィー体、スルス体、バンナーイー体などの書体を用いてクルアーンの聖句を記した。碑文やサンドゥーグに記されたクルアーンの聖句は、「ヤースィーンの章[第36章]」や「アーヤトルクルスィー[王座の節の意、第2章255〜257節の3つの節を指す]で、サラワート[預言者とその一門に対する祝福祈願]やハディース[ムハンマドの言行に関する伝承]、さらには非宗教的な文言のこともある。

−(2)に続く−

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( 翻訳者:OM )
( 記事ID:59695 )