マーザンダラーンの参詣地と宗教ツーリズム(2)
2024年12月31日付 Jam-e Jam 紙


−(続き)−

 装飾的なサンドゥーグはこの州の聖廟の構成要素の一つに数えられる。それらのサンドゥーグはマルアシ―政権[1358/59〜1596年]の時代、ヒジュラ暦6、7世紀[西暦12世紀、13世紀に相当するが、マルアシー政権の時代に合致しないため、記者の誤りと考えられる]に作られた。マルアシ―政権はタバリスターンの地域に樹立されたシーア派地方政権の一つであり、創始者であるセイエド・カワームッディーン・マルアシ―は敬虔なシーア派ムスリムであり学者だったと見られている。彼は勢力を伸ばして同地で圧政を敷いていた支配勢力に打ち勝ち、シーア派十二イマーム派の信仰の上に立つ政権を築いた。マルアシー政権の統治者らは公正な政治を行い、社会的公正を実現するために尽力した。彼らはシーア派の宣教や布教に尽力し、その宗教的な活動には、シーア派信徒間に服喪文化を創り出すこと、カルバラーの殉教者らの美徳を守ること、アーシューラーの蜂起の精神を永続させることなどがあった。

 マルアシ―政権の時代には、セイエドたちやイマームザーデらの聖廟やマルアシー家の有力者らの廟の建設が盛んに行われた。これらの建物の多くには、ザリー[訳注:聖廟に設置された墓石を囲い覆う柵]の代わりに木製の扉やサンドゥーグなど木製の品々が設えられていた。この木製のサンドゥーグの多くは、幸運にもマーザンダラーンの人々の信仰心により守られてきた。サンドゥーグの主材料である木材が豊富にあることが、この貴重な材料の使用を説明する。このサンドゥーグには、幾何学模様や植物による紐模様技法の装飾を施した彫刻が見られる。また通常、制作者の名前や制作年、後援者の名前をサンドゥーグの表面に見ることができる。初期のサンドゥーグは非常にシンプルで、装飾も施されていなかったが、次第に幾何学模様や草花模様、アラベスク模様が装飾のために追加されていった。さらにサンドゥーグは、スルス体などの装飾文字を用いて、純正章[第112章]やアーヤトルクルスィー [王座の節の意、第2章255~257節の3つの節を指す]といったクルアーンの聖句や、大いなるサラワート[サラワートは預言者とその一門に対する祝福祈願/ラマダーン月のための特別なサラワートは「大いなるサラワート」として知られ、ラマダーン期間中毎日唱えることが推奨される]、預言者のハディース[ムハンマドの言行に関する伝承]などによって装飾され、その内部は長方形状の板で分けられていた。これらの聖句は多くの場合、サンドゥーグの縁の部分に帯状に、もしくは本体に垂直に用いられていた。実際のところ、芸術的に高い評価を受けている名工であればあるほど、その制作には多様で複雑な図柄が用いられた。芸術家たちはその芸術的傑作の制作にあたってともに影響を受け、互いの作品に範を取りあっていたと考えられる。時間の経過はサンドゥーグの制作に影響を与え、その寸法はより大きく、高くなった。マルアシ―政権の時代の終わりごろにサンドゥーグはザリーへと変貌し、芸術的創作にあたる名工の技術の高さを示す新たな魚の鱗の図柄など新しい装飾が従来の装飾に加えられた。残念ながら、マルアシ―政権はティムールの暴風のような攻撃に耐えることはできなかった。タバリスターンの地へのティムールの攻撃によって、その栄光と栄華は衰亡の淵に沈んだ。

◆参詣地、公共の幸いの場

 宗教ツーリズムには歴史と古くからの世界的重要性があり、宗教的な思想を広め、国内に経済の中心地を生み出すことができる。参詣地は宗教ツーリズムの中心をなすものとみなされ、イランではそのほとんどがイマームやその子孫の聖廟である。こうした聖所は特別な神聖さを持ち、人々のもとで特別な地位を占めている。マーザンダラーン州の聖廟建設は長い歴史を有し、イルハン朝期以降までさかのぼる。それらの聖廟は内と外との二つの部分で構成される。外はイランの他の聖廟と比べて簡素であり、複雑な技巧や装飾は聖廟の内部に向けられている。入手可能な資料によれば、この聖廟の大小様々な装飾はイスラームやシーア派の広がりに沿ったものであり、それらの装飾の制作に用いられた芸術的美学的側面がこのことを示している。

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( 翻訳者:OM )
( 記事ID:59696 )