2005年10月10日付シャルグ紙1面
【スポーツ部:パジュマーン・ラーフバル】アムジャディーイェ地区を一望するアパートの窓は、あの歴史的一日を記憶にとどめている。その日、初めての女子サッカーの試合が、テヘランを代表するスタジアムの第一競技場の芝の上で行われたのだ。それも、サッカーがいまだ徹底して男のスポーツであった地で。それゆえ、その試合の様子を伝える数少ない写真の背景を埋め尽くしているのは、口ヒゲをたくわえ、時代の変化に抗おうとする敵対的な目をした男たちであるのも、当然であった。30数年前、テヘランの中心でのことだ。どことどこがプレーしたのか。イタリアの女子チームとタージ〔?〕女子選抜チームだ。ケイハーン・スポーツ紙は彼女たちのことを「イブの娘」と紹介している。彼女らは、以前から興味をもっていたことが縁で、競技場にボールを転がすこととなったスポーツウーマンの一団であった。しかし、他のあらゆる種類のスポーツは盛んであったにも関わらず、これが、イランにおける最初で最後の女子サッカーの試合となった。
それはいつのことだったのか。誰も覚えている者はいない。何対何だったのか。覚えているのは、ただ負けたということだけだ。この記憶は何と早く忘れられてしまったのだろうか。
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サッカー熱が至るところで上がっている。朝、新聞の売店の傍らでしばし観察してみてほしい。サッカーのスター選手の最新報道を追い求める《第二の性》〔女性のこと〕のサッカー・ファンがいかに多いかに驚くだろう。〔1998年のワールドカップ・フランス大会の予選でイランがオーストラリアと戦い、敵地でイランがワールドカップ進出を決めて〕イラン・ナショナル・チームがオーストラリアから帰国すると、彼女らの多くもアーザーディスタジアムへ行って雄叫びをあげた。イランでは誰も敢えて報道しなかったが、フランスの雑誌「パリ・マッチ(Paris Match)」は、アリー・カーヴェの写真(それはこっそりとスタジアムで写されたものであるが)を、見開き2ページで印刷・出版した。印象深いその写真には、特別観覧席の正面を陣取って、イラン・ナショナル・チームの選手の名を叫んでいる、女性たちとおぼしき一団が写されていたのだ。それを見て、ある人が「彼女たちはサッカー・ファンなんですかね、それともサッカー選手のファンなんですかね」と聞いてきた。誰も答えなかった。答えなどなかったのだ。
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「女性サッカー協会」の名を聞いた時、みな目を丸くしたものである。98年のワールドカップのあとも、サッカー熱はまだ冷めてはいなかった。フットサルの試合が行われるようになった。もちろん、ボール遊びといったレベルだったが。会長が任命され、コーチングのためのクラスが組まれた。偶然だが、このクラスの講師を務めたのは、ある有名コーチの妻であった。彼女の名はファリーデ・ショジャーイー。体育教授法を専門に学んだ彼女は、マンスール・プールヘイダリーの妻である。多くの人が、〔彼女のもとで学ぶために〕様々な地方から来ては帰っていった。
面白いのは、実際はフットサルであるのに、団体の名前が「サッカー」となっていること。もっとも、フットサルは「フットサル」ではなく、「室内サッカー」と訳すべきだが。この中で、数名の名が知られるようなった。ナーセル・ヘジャーズィーの娘アートゥーサー・ヘジャーズィーはクラブ選手権の最優秀ストライカーとして活躍。引退したゴールキーパーのイスマイール・アルダラーンの娘ニールーファル・アルダラーンも、スター選手の一人である。
しかし、〔女子フットサルの国内クラブ選手権の〕決勝戦を一度見に行ったことのある女性は、次のように述べた。「興奮するのはまだ早いわよ。特別なことなんか何もないんだから。4人がボールを追いかけて走っているだけで、応援してくれる人なんて一人もいなかったくらいよ」。サッカーなら大々的に取り上げる新聞も、女子フットサルには全く冷淡だ。要するに、選手の面々が取り上げられることなど、これまで全くなかったのである。最初の頃の熱狂的関心も完全に失われ、女子フットサルは注目の埒外に置かれるようになった。
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FIFAのウェブ・サイトは、西アジア・サッカー選手権の初日に、熱心に国歌を歌う4人のイラン人女子選手のクローズアップ写真を、トップ・ページに載せた。この写真をみて驚いた私たちは、イラン・サッカー(フットサルではなく)の女子チームが西アジア選手権に出場していることを知った。すぐさま「どんな服装で彼女たちは出場しているのか」との疑問が頭に浮かんだ。どうやら彼女たちは、「イスラーム」的な服装をしているらしい。他の写真も探してみた。すると、彼女らは長くゆったりとしたシャツ、長いズボン、髪を覆う布、といういでたちであることが分かった。某有名通信社に勤めるカメラマンによると、「イラン女子サッカーチームの写真は世界の多くの新聞で報道されてましたよ。試合初日に、アラブのカメラマンが写真を紙面に載せたところ、結構評判になりましてね」との由。イランの女性がスポーツで国際舞台に立つのは、射撃、格闘技、最近になってゴルフなどにほぼ限られていた。しかし、今回彼女らが新たにサッカーの国際試合に参加することで、イラン女性は「制限」と呼ばれていたものに対して大きな一歩を踏み出したのである。決して妄想などではない。彼女らは「イラン人」という条件下で、試合に出場し、試合を戦い、光り輝き、そして準優勝を飾ったのであった。
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ビン・ハンマームAFC(アジア・サッカー連盟)会長は連盟各国への書簡の中で、イラン女子サッカー・チームの試合への参加を受け入れるよう、要請した。アジアは中国の存在によって女性サッカーの有力地域とされ、またサッカー・ファンの中にはミア・ハム(アメリカ・サッカーチームのスター選手)やブリジット・プリンス(ドイツ)のような選手の名を耳にしたことがある人もいる程、世界では女子サッカーは盛んである一方で、サッカー・イラン女子はやっと室内を通り抜け、芝のピッチ上に立ったところである。
彼女らは有能であり、愛すべき選手である。しかし、将来行われる国際試合が、われわれに課されている条件と合致しないことも考えられ、彼女らが今後国際試合に参加できるかどうかは不透明である。AFCからのゴーサインがあったとしても、イランのサッカー連盟は、例えば19歳以下のアジア選手権への参加の是非について、お上である政府当局と協議する必要があるからだ。。
(以下略)
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翻訳者:岩間縁
記事ID:1118