モハンマド・グーチャーニー
イスラーム共和国の中でも最も神聖なる政治組織である専門家会議にも、ついに〈世俗化〉の波が押し寄せている。
ゴム宗教界の「倫理」の教師アーヤトッラー・メシュキーニーが専門家会議の議長を務めることは、全国津々浦々の高位宗教指導者らにとって、何年にもわたる〈合意〉となっていた。しかし、専門家会議議長を選出するこのような旧来の方法にも変化の波が訪れた。新しい議長は、合意によってではなく、二つの党派間の政争によって選出されたのである。政治発展をもたらす主要な要素としての党派形成の流れが専門家会議にも押し寄せた、ということでもある。しかもそれは、いわゆる〈改革派〉からではなく、〈原理主義派〉を自称する者たちから起きた動きなのである。
彼らはハーシェミー=ラフサンジャーニーが最高指導者専門家会議の議長となる可能性を押さえ込もうと、何ヶ月も前に大規模な協議を行い、「専門家会議議長には、政治的手腕よりもイスラーム法学に精通していることが必要」、「専門家会議議長は体制の高度な利益に適合していることが必須」といった分析を暗に触れ回ることで、確実視されていたラフサンジャーニーの専門家会議議長就任に横やりを入れようと努力していた。専門家会議のあるスポークスマン役を務める人物—彼も明らかに〈原理主義派〉に属している—がインタビューを受けている横で、「アーヤトッラー・ヤズディーが最も有力だ」などとひそひそ話をするといったこともあった。
さてこのような中、1386年シャフリーヴァル月13日火曜日〔2007年9月4日〕朝、三人のアーヤトッラーが専門家会議の運営委員会に演説の許可を得た。最初に演壇に立ったアーヤトッラー—三人の中で最も尊敬されている人物—は、「ハーシェミー=ラフサンジャーニー氏には敬意を抱いているが、しかし専門家会議の議長には政治よりもイスラーム法学の知識が優先される。それゆえ、ゴム宗教界の視線はアーヤトッラー・ジャンナティーの議長就任に注がれていることを、ここに表明する」と述べた。
冒頭演説に臨んだ二人目のアーヤトッラーもまた、次のように言う。「アーヤトッラー・メシュキーニーの後任は、政治家ではなく、故人のようなイスラーム法学者でなければならない」。
三人目はラフサンジャーニー批判が高じて、次のように論難している。「最近ディーヤ(賠償金)の男女同額化を擁護したのはどういうわけか。もし擁護などしていないというのなら、では何故報道を否定する声明をプレスに出さないのか。これこそがラフサンジャーニーが《イスラーム法学者ではない》ことの証であり、議長にはジャンナティーを選ぶべきだ」。
ここにいたって、ラフサンジャーニーも発言の機会を得る。彼は、自分が述べたのは女性の賠償金における公正な額についての議論であって、イスラーム法学上の原理の見直しを主張したのではない、と弁明している。
続いて、議長立候補者の紹介になる。ちょうど政治的な評議会〔=国会〕と同じように、この宗教的な評議会〔=専門家会議〕でも指導的立場にいる人々が立候補に名乗りを上げる。あるグループはアーヤトッラー・ジャンナティーを推し、別のグループはアーヤトッラー・ヤズディーを推す。ゴレスターン州最高指導者代理のセイエド・カーゼム・ヌールモフィーディーを推す人々もいる。またアーヤトッラー・ハーシェミー=ラフサンジャーニーを議長立候補に推す、限られた数の改革派議員もいる。
このような中でモハンマド・ヤズディーは、もしジャンナティーが立候補するならば、自分が立候補する必要はないと表明、立候補を辞退した。この辞退は事実上、立候補を続けると表明したジャンナティーを利することになった。
ジャンナティーはこれより前にも、アズィーズィーに対して立候補の意志があり、ラフサンジャーニーとの競争を避けるつもりはないと述べていた。曰く「今や時代は違うのだ」。
これに対するラフサンジャーニーの発言は、要約すると、次のようである。「たとえこのような事態になろうとも(恐らくラフサンジャーニーは、自らが専門家会議の議長に就任することについて疑義を挟む者はいないと考えていたのであろう)、競争は選挙には付き物であるし、あるポストに対して候補者が一人ということはあり得ないのであるから、〔議長ポストをめぐる〕争いには〔正々堂々と〕参加する」。
果たして、集票の結果アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニーは41票、アフマド・ジャンナティーは34票を獲得する、という結果に終わった。
〔中略〕
こうして、専門家会議に二つの派閥が正式に産声を上げ、議長選挙はジャンナティーに対するラフサンジャーニーの勝利に終わった。次に行われたのは副議長選挙であった。アーヤトッラー・モオメン候補が37票を獲得し、当選。次点はアーヤトッラー・ハーシェミー=シャーフルーディー候補(彼はラフサンジャーニーが推薦した候補だった)で、33票獲得した。
こうして、専門家会議は今や、一方の派から議長(ハーシェミー=ラフサンジャーニー)を迎え、もう一方の派から副議長(ヤズディーとモオメン)を迎える格好となった。そしてこれが、最高指導者専門家会議の新時代の姿なのだ。政争から自らを遠ざけようと、大変な努力をしてきた会議は、今や政争の中心に位置づけられている。派閥が形成されることがないよう大変な努力をしてきた会議は、いまや少なくとも二つの党派を有するようになってしまった。
さて、〔今回の議長選挙では〕多数派と少数派で投票行動が分かれたわけだが、興味深いのは今回の投票で敗北した党派とは、当の専門家会議選挙の際の資格審査で中心的な役割を果たした党派であったことだ。シャフリーヴァル月13日〔9月4日〕に専門家会議の議員らが行った選挙は、現在の政治党派にとって〔自らの政治力を試す〕試験であったという以上に、護憲評議会がこれまで行ってきた活動に対する試験でもあったという意味合いをもつのだ。つまり、護憲評議会のトップの二人〔ジャンナティーとヤズディー〕が、彼らによって最も信頼が置けるとされたイスラーム法学者・宗教学者たちの審判を受けたということである。護憲評議会がイスラーム法学の法演繹能力と政治的信頼性を承認した人々〔=護憲評議会から専門家会議選挙への立候補を許された人々〕が下した審判・投票とは、護憲評議会にとって最も信頼のできる審判・投票に他ならない。
その一方でハーシェミー=ラフサンジャーニーも、昨日明確なメッセージを受け取った。もしラフサンジャーニーが〔競争によるのではなく〕合意による選挙に参加して専門家会議議長に選ばれたのであれば、あたかも専門家会議では何も起こらなかったかのよう見えたことだろう。実際、過去3期の専門家会議では、そのように事は運んでいったのである。もしハーシェミー=ラフサンジャーニーが、議長選挙に臨み、結果原理主義派の合意によってジャンナティーのような人物の前に敗北を喫したならば、それはそれでイスラーム共和国にとって大きな出来事だったに違いない。それはラフサンジャーニー外しのプロジェクトの勝利を意味したからだ。
自らがその創建に関わった体制からラフサンジャーニーが別れを告げるといったことには、今回ならなかった。むしろ今回の選挙で起きたのは、透明でオープンな争いによって、最後の伝統主義的な機関の一つであった専門家会議もまた、政治発展の波に晒されたということであり、またイスラーム共和国の歴史において初めて、アーヤトッラー・アフマド・ジャンナティー(この人物はこれまでつねに、他人の選挙を監督することを生業としてきた)が自ら選挙というものの洗礼を受けたということである。80代にして初めて、ハーシェミー=ラフサンジャーニーと選挙で相対したというわけだ〔※ジャンナティーは1926年生まれ〕。
アーヤトッラー・ジャンナティーはマフムード・アフマディーネジャードの最も熱烈な後援者としての自信から、今回選挙に臨むことを決意したわけだが、このこと自体、誰が選挙で勝利を収めるかということとは無関係に、イランの民主主義運動にとって大きな勝利であったと言えるだろう。
今ハーシェミー=ラフサンジャーニーが理解しなければならないのは、自身がイランの政治地図の上でどこに位置しているのかということである。彼はもはや、複数の政治党派の中間に位置することはできない。たとえラフサンジャーニーが自らを改革派、あるいは原理主義派であると見なすつもりがなく、自らが左派あるいは右派と呼ばれることを望まず、現在の党派の分け方を受け容れなくとも、そして自らを中道穏健派であると見なすことを望むとしても、穏健路線の反対側には急進路線があり、望むと望まざるとに関わらず、それ自体一つの政治党派であるということを認めざるを得ないのである。
〔後略〕