宗教の法規定が現実的であることの理性的論証
〔中略〕
思想家や倫理学のウラマーたちは皆、宗教が酒をハラームとするなら、それは現実に基づいたものである、つまり何らかの公益がその法規定には隠れた形で存在しているのだと論証してきた。同様に、『雄弁の道』〔初代イマーム・アリーの言行録〕の格言部分にも、宗教法規定にみられる客観的で実践的な意味や、社会においてプラスとなる要素の数々が一つ一つ言及されており、それぞれに対して理性的論証が語られているとしてきた。
しかしもし宗教に対して合理的な視点を持たず、単に道徳という観点から、それも一般的な意味でのそれからのみ考察するならば、イスラーム法は根本的にその重要性を失ってしまうだろう。
宗教から理性を取り除くことで生ずるイスラーム法学への軽視
イスラーム革命を希求した一部の人々がイスラーム法学を軽視する姿勢に強くこだわったのも、このような視点に根ざしている。
実際、もはやイスラーム法は重要ではなく、社会におけるイスラーム法の施行は重要性を失っており、一種の神秘主義がその代わりを務めるとするこのような見方は、故イマーム・ホメイニーが掲げ、指導した神秘主義とは180度異なるものなのである。
このような逸脱した思想は宗教をますます内面的かつ個人的なものにするだろう。個人は社会的問題に対してなす術もなく沈黙してリベラリズムの手に委ねられ、多数派が決定したことなら何でも実行てしまう。つまり、もはや宗教の法規定が定める公益を理解することには意味がなくなってしまうのである。西洋的な考え方、つまりある人はある宗教を信じ、また別のある人は別の宗教を信じる、重要なのは愛と信仰である、どの宗教にも互いに違いはない、などという考え方ばかりが言論を支配すれば、否応なしにイスラーム法は否定され、世俗主義がそれに取って代わることになるのだ。
世俗主義の認識論的基礎は宗教から理性を取り除くことであり、宗教についての理性的思考は、今日こうした思想の解毒剤なのである。
〔後略〕