新刊書『ヨーロッパに渡ったオスマン女子留学生』

2013年12月08日付 Zaman 紙

作家ギュルダネ・チョラクは、首相府オスマン文書館公教育省文書(Maarif Nezareti dosyaları)に収蔵されている資料を踏まえて、「ヨーロッパに渡ったオスマン女子留学生」に関する本を著した。この本には、女子が教育を受けられないという問題がオスマン帝国において着手されていたこと、女性の教育が重視されていたことに関する重要な情報が記されている。

女性の教育とキャリアに関する問題は、長年多くの議論の的となってきた。これらの議論は一般的に、イスラムとオスマン帝国において女性は正当な評価をされていなかった、働く場が与えられなかった、教育が欠けていたという結論に達する。さらには共和国建国以来、女性と女性に対する教育への向上が重要視されるようになったという、広く知られた見解が支配的である。作家ギュルダネ・チョラクが、首相府オスマン文書館公教育省文書の資料を踏まえて記した「ヨーロッパに渡ったオスマン女子留学生」は、この意見がまったく根拠の無いものであることを示している。近年オスマン人女性と特にその教育について扱った研究が徐々に数を増しているとはいえ、オスマン時代の女子学生の教育に関する中でも、さらに一段階上にあるヨーロッパにおける教育については、未踏の分野である。このため、同書ではヨーロッパに派遣された女子たち、彼女たちが受けた教育と彼女たちによって語られた経験、オスマン政府が行った支援について説明されている。更にはムスリムのみではなく、非ムスリムの女子がいつ、どの国に、なんの教育を受けるために行ったのかということに関する情報も、これらの資料に記されている。

■すべては第二次立憲制から始まった

オスマン帝国が女性とその教育を重視していた様子を見るには、当時のプロセスを見ることが有益である。タンズィマートとともに西洋化の影響がオスマン帝国の女性の生き方にも反映されたことは見逃せない。第二次立憲制時代になると、女性たちも対象とした新トルコ人の改革政策は、オスマン人女性を経済・社会生活における主体とみなし、第二次立憲制とともに女子に対する大学教育実施のための第1歩が踏み出された。女性の大学参加は、1913年度の後半からである。大学(Darülfünun)における女性に対する最初の大学教育は、講義の形で始まった。これらの授業では、師範学校(Darulmuallim)や大学の教員によって、女性の権利、家庭に関する知識(家事、家計、家庭の管理)、応急処置、女性健康科学、歴史学、教育学に関することが教えられた。イナス大学は、1914年度に3学部を持つ大学として開設された。当初は文学部、数学部、医学部に22名の学生が登録されている。

■ヨーロッパよ、手を

第1段階において、この3学部制の大学は成功を収めた。次は女子教育にける、ヨーロッパでの教育計画の番である。ヨーロッパへの学生派遣の実施は、マフムート2世の時代の1830年にヒュスレヴ・パシャの後援のもと4名の学生をフランスに派遣したことに始まる。やがてヨーロッパへの女子学生の派遣についても議論されるようになった。これは、公教育省がヨーロッパに学生を派遣して、教育機関の近代化によって変化したシラバスで将来雇用できる教員の質を向上させようとしたためである。当時公教育省は、外国に派遣する学生を、新聞で公示した試験で決定していた。男子候補とは別に、女子学生の卒業点数、能力、または学校側の見解によって認めるか否かを決定していた。

■アズニフ・メフデルヤン:ヨーロッパに派遣された最初のオスマン女子

1910年度は、オスマン帝国がヨーロッパに初めて女子学生を派遣した年である。さらに、ペラ・エサヤンや卒業生アズニフ・メフデルヤンは、資料によると政府の支援によってヨーロッパに派遣された最初のオスマン人女子であった。当時、新聞上の広告によって、ルム、アルメニア人、ブルガリア人、ユダヤ人のジェマートから1人ずつの女子学生を選び、フランスとドイツに派遣するための試験が発表されていた。オスマン帝国の非ムスリム女子が優先された理由は、彼女たちが実際に外国の学校を卒業していたことである。このような女子学生は言語面での問題をかかえていないだけではなく、より早く適応し、同時に短期間に教師となって帰国するだろうと考えられた。しかしこのムスリムのオスマン人女子に試験を受ける道が開かれたとしても、不当な扱いだと考えて気分を害した者たちもいただろう。女性の世界という雑誌では、この件について宗教的・国民的議論も行われた。「預言者は『知識を求めるならば中国までですら行って得なさい』という指示をお出しになった。そしてさらに『知識の欲求と学習は男女のそれぞれの信仰者に対する宗教的義務である』と仰った。現在、知識と科学は中国ではなく、ヨーロッパにあることは、誰もが知っている。」このような主張にも関わらず、ヨーロッパにおけるムスリム女子への教育の前に立ちふさがった障害を乗り越えるには時間がかかった。ムスリムの女子学生にとってヨーロッパでの教育は望まれないことであった。高等教育を受けて帰国した女子が自分で伴侶を見つけられないのではないかという懸念が強かったからである。ムスリム女子へのヨーロッパでの教育は、1913年度に開始された。最初に派遣されたムスリム学生が、縫い編み、アイロン掛け、染み抜き、家庭の管理といった、ヨーロッパでは習得が必須とされなかった分野で派遣されたことは、非常に興味深い。しだいに女性たちにとってヨーロッパでの教育の問題が変化していったことが知られている。

■「女性は子どもたちの最初の教師として社会を作り上げる」

ギュルダネ・チョラク:女の子供の教育と女性らしさの向上はオスマン時代においても非常に重視されていた。女性の教育において、「女性は子どもたちの最初の教師として社会を作り上げる」という観点で認識され、活動が行われていた。19世紀に開校された女学校と女学校のシラバスに記された授業の多様性に目をやると、このことがわかる。この意味において、1910年にようやく女子学生が政府の奨学金によってヨーロッパに派遣され始めたことは、このことの最良の例の1つである。これらの資料を見ると、今日に至っても我々が努力している女子の教育の問題に、オスマン時代から着手されていたことがわかる。さらに、女学校で勤務する女性教員を育成するため、1870年に女子師範学校が開校されたこと、女性教員の質と数を増加させるために行われた試みのうち、ヨーロッパで育成された教員が女子学校で教員として雇用されたことには、当時の女子に向けた教育政策を反映している。

■ヨーロッパを見たオスマン女性

ムクビレ・レシャド:資料によると、芸術を学ぶためにヨーロッパに行った最初のムスリム女性である。彼女の作品には、ハムドゥッラー・スプヒとレフェト・パシャの胸像などがある。

ベルクス・ムスタファ:初期の女性画家を代表する人物である。国の奨学金によってドイツに派遣された。ベルリン芸術アカデミー絵画部門を修了し、1921年にあらゆる画材と技術を扱う大画家として帰国した。

サアダ・エミンとスアド・マフムド:戦時下という困難な状況にあっても、学業を諦めなかった。アイドゥン県の奨学金によって1915年10月にスイス・ジュネーヴの医学校(Ecole de Medicine)で医学を学び始める。サアダ・エミン(カアッチュラル)は内科の専門医として帰国した。のちに1943年に第7期マニサ選出国会議員となり政界入りした。

ファトマ・レシト(アタサグン):1901年エディルネ出身のファトマ・レシトは、医師を志したが、大学の医学部が女子学生に開かれていなかったため、生物学の道に進んだ。ロックフェラーの名の元4人の奨学生を選ぶアメリカ人と議論したことが、彼女にアメリカで教育を受ける機会を与えることとなった。ボストン・タフツ大学で医学の勉強を始め、1925年に卒業した。1年間メトロポリタン病院で、3ヶ月間ロングアイランドで勤務した。その後、婦人科学と産科学の専門家として帰国した。

ベルクス・ベキル:家族の支援によって、当初パリで歯学を学び始めた。その後1913年には公教育省が月200フランを寄付した。戦争が勃発すると、ジュネーヴに派遣された。戦時下では勉強を続けることはできないと考え、赤新月社勤務を志望した。

サフィイェ・エロル:小説で知られるサフィイェ・サーミー(エロル)は幼少時にリューベックに行き、トルコ人・ドイツ人共同体から20マルクの手当を受けて、とあるドイツ人の家庭に滞在して勉強を続けた。ドイツでの学生時代に執筆を始めたサフィイェ・サーミーの最初の作品、レイラとメジュヌンもその地で出版された。

スアト・デルヴィシュ:最初の女性記者。彼女の記事は様々な言語に翻訳され、国際的な名声を獲得した。妹ハミイェト・ハヌムに同行するためドイツに行き、彼女とともにベルリンのコンセルヴァトワールに入学したデルヴィシュは、その後文学部に入り哲学を学んだ。この作家は、フォスフォルル・ジェヴリイェとしてより知られている。

■女性人民党

第2次立憲制の後、社会生活の教育分野においてもっとも居場所を獲得したトルコ人女性たちが、存在を示せない唯一の分野は政治であると考えられた。共和国初期に、すぐにこの問題が議題に上がった。その主演はネズィヘ・ムヒッティンが周囲の女性たちと創設したトルコ女性連盟であった。女性人民党として出発したもののその後名称を変えなければならなくなった同連盟は、女性たちに政治への道を開くために尽力した。


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

同じジャンルの記事を見る


翻訳者:永山明子
記事ID:32202