元革命防衛隊戦争研究センター所長で、戦争の語り部にして「聖なる防衛」[=イラン・イラク戦争]時に革命防衛隊政治局員でもあった人物が、「マクファーレン[※]との交渉は、イマーム[・ホメイニー]の許可を得て行われたものであり、閣下はこのことでアーヤトッラー・ハーシェミー[・ラフサンジャーニー公益判別評議会議長。当時、国会議長]を決して叱責なさらなかった」と述べた。
※訳注:米レーガン政権の1983年10月から85年12月まで国家安全保障問題担当の大統領補佐官を務めた人物。イランへの米製ミサイルの提供とレバノンで捕らえられているアメリカ人人質の解放についてイラン側と交渉、86年5月下旬に同国を秘密裏に訪問した。
イラン学生通信の報道によると、モフセン・ラシード司令官はニュースサイト「エンテハーブ」とのインタビューで次のように語った。
マクファーレンとの交渉は、62年[西暦1983/4年]から準備されたが、それはトルコ首相、そしてG7代表としての[西]ドイツ外相のイラン訪問へと帰結する、アーヤトッラー・ハーシェミーの一連の動きと時を同じくするものだった。他方ハーシェミー氏は日本、リビア、シリアを訪問したが、その時ヘンリー・キッシンジャー[元]米国務長官が日本に滞在中であるとの情報が伝わった。こうしたことすべてが、マクファーレンのイラン訪問への序曲となった考えることができる。
同氏は更に続けて、次のように述べた。
こうした中、政治的対話のスイッチを入れたのは、基本的にイマームであり、イマームのご指導の下に始められた。イマーム・ホメイニーは63年アーバーン月6日[西暦1984年10月28日]に、外国大使たちとの面会の場で、「イスラームの初期の時代に、預言者が各地に使者を派遣して、関係構築を図ったのと同様に、我々も行動すべきだ」と発言されたが、これがまさにハーシェミー氏の行動原理だったのである。
[中略]
同氏はマクファーレン事件に言及し、「政治交渉は、ハーシェミー氏指揮のもと、イマームの大筋での許可を得て行われたものであり、ハーシェミー氏自身も、『本件に関する行動はすべて、イマームの許可を得て実行していた』と[回顧録の中で]語っている」と述べた。
革命防衛隊元政治局員の同氏はさらに、「マクファーレン事件では、ハーシェミー氏とモフセン・レザーイー氏[※当時の革命防衛隊総司令官。現公益判別評議会書記]は互いに調整しあっていたが、しかしながら、革命防衛隊そのものはこの問題について知らされてはいなかった」と述べた。
ラシード司令官は続けて、「ハーシェミー氏とモフセン・レザーイー氏は、マクファーレンとの交渉において、それぞれ代理を立てていた。すなわち、フェレイドゥーン・ヴェルディーネジャードがレザーイー氏の、そしてハーディー博士とロウハーニー氏[※現大統領]がハーシェミー氏の代理を務めていた。このチームが、米国側に相対する、イラン側の中心的な交渉メンバーだった」と述べた。
元革命防衛隊研究センター所長は更に続けて、「当時ロウハーニー氏は、[体制内で]中心的人物とはみなされておらず、実のところ、ハーシェミー氏の立てた計画の推進役にすぎず、国の第一級の人物とは考えられていなかった」と述べた。