同氏は「アメリカの交渉団は[1986年5月下旬に]イラン入りした後、聖書と拳銃とケーキをイラン側に渡した」と述べた上で、次のように語った。
軍事貨物はアメリカから送られてくる予定だったにもかかわらず、イスラエルのマークの入った貨物がイランに送られてきたことで、交渉は行き詰まってしまった。これが問題となって、交渉は膠着状態に陥った。
※訳注:イランとの武器の秘密取引は、当初レバノンに捕らえられていたアメリカ人人質と引き換えに、イスラエルからイランに武器を送る形で行われた。しかしその後、オリバー・ノース中佐が直接アメリカからイランに武器を輸出し、その代金をニカラグアの反体制組織「コントラ」の支援に充てるという構想を計画した。
ラシード司令官はさらに、「マクファーレンとの交渉が発覚したのは、話し合いが行き詰まっていた頃だった。話し合いが中断されて、すでに4ヵ月が経っていた」と付け加えた。
革命防衛隊元政治局員は、次のように続けた。
こうした中、交渉は行き詰まっていたものの、イマーム・ホメイニーはその暴露を指示しなかった。しかし、メフディー・ハーシェミー[※1]とそのチームは二重スパイの[マヌーチェフル・]ゴルバーニーファル[※2]を通じて[秘密]交渉のことを知り、この問題はシリア紙「アッ・シラー」で公になってしまった。このとき、イマームはハーシェミー[・ラフサンジャーニー]に、交渉問題を明らかにするよう指示を出した[※3]。
※訳注1:メフディー・ハーシェミーは当時ホメイニーの後継者と目されていた(後に失脚)モンタゼリー師の娘婿の兄弟で、アメリカとの秘密取引をはじめ、外交政策をめぐって指導部と対立、後に逮捕・処刑された。
※訳注2:ゴルバーニーファルはイランとアメリカ・イスラエル間の武器取引を仲介していた武器商人で、シャー体制下の秘密警察SAVAKの元関係者。CIAやイスラエルとつながる一方で、イラン体制内にも関係の深い人物がいたとも言われる。
※訳注3:1986年11月にアッ・シラー紙でイランとアメリカの秘密交渉が暴露された翌日、ラフサンジャーニー師が金曜礼拝でこのことを認めたことを指す。
〔‥‥〕
ラシード司令官は続けて、次のように述べた。
イマームがハーシェミーを、マクファーレンとの交渉のことで叱責したと言われているのは、歴史の歪曲である。実のところ、これを国会の場で議論しようと考えていた人たちを、イマームは叱責したのである。当時、8名の国会議員がこの件で政府に質問しようと考えていたが、しかしこの問題は国益に関わる問題だったため、イマームは介入して、(皮肉っぽく)「この声[=マクファーレンとの交渉問題で政府を追及しようとする一部の国会議員の動き]はイスラエルの声と似ている」と仰ったのである。この問題を国会で取り上げようと考えていた人々は、当時右派に属する人たちで、今では「原理派」の一部となっている人たちだ。
同氏はまた、「実のところ、体制のマクロな戦略のレベルでの交渉の全貌は、複雑な問題が片付いて結果が出るまで、公になってはならないものだった」と付け加えた。
元革命防衛隊戦争研究センター所長はその上で、「革命が起きて最初の10年間、イマームがハーシェミー氏を、人々の耳に入るような、あるいはメディアがそれを伝えるような形で批判したことは、一度もなかった」と言明した。
[後略]