Oral Calislar コラム:「3人のフランス人テロリストが殺害された」の意味
2015年01月10日付 Radikal 紙
昨日パリで警察が作戦を実行した後、CNNインターナショナルテレビは関係者からの情報に基づき次のように報じた。「3人のフランス人テロリストが殺害された」。
トルコで「宗教主義殺人犯」「イスラーム主義ファシスト」といった呼び方が目立つ中、フランス政府が殺害されたテロリストについて「3人のフランス人」と呼んだこと、襲撃をムスリムやイスラームのせいにすることなく発表したことは、非常に重要で注目すべき点だ。
シャルリー・エブド誌に対する卑劣な襲撃は、「宗教」、「宗教主義」、「世俗主義」などに関する我々の記憶を再び呼び起こす原因となった。
私たちは、自ら引いた国境の外での宗教主義を「後進的」とみなす、西洋の世俗主義の定義を模倣する教育を受けた世代だ。
民主主義を含まない世俗主義の考えを、次の3語が分かりやすく示していると思う。「Brutal but secular」つまり、「野蛮だが世俗主義」…野蛮でも良い、独裁者でも良い。ただ「世俗主義」であるならば、適切だと認められるのだ…この考えは、世俗主義を自動的に自由や民主主義とイコールとする言説が現実的ではないことを示す。
■世俗主義の強調
パリでの非人道的な襲撃の後、この考えを呼びかける表現が増えたのが分かった。例えば、トルコで襲撃を非難する一部の通知は、イスラーム世界に「21世紀の世俗主義」に従って自己批判を行うよう呼びかけている。襲撃者たちは通知の中で、「宗教主義殺人犯」と呼ばれている。別の記事は、西洋で高まるイスラーム恐怖症の本当の理由は「高まるイスラーム主義ファシズム」であると強調する。また別の通知では「トルコでイスラーム主義ファシズムが凶暴化したこと」が主張されている。
「西洋型の世俗主義」も「トルコ型の世俗主義」も、「自由と民主主義に門戸を開くことを自動的には意味しないこと」は皆分かっている。「宗教が社会生活の外に押し出されることで自然と自由が生まれるかもしれない」という仮説とともに時が過ぎた。「世俗主義の共和国」は90年間もの間、なかなか民主主義を生み出せなかった。世俗主義を最も激しく擁護する人たちは「自由」について考えたことがなかった。
■宗教主義の到来
恐怖と「何ということだ!!」という叫びに包まれる中、トルコでは宗教主義にルーツを持つ政党が政権についた。当初、「厳格な世俗主義の支持者」が民主的なヨーロッパの価値観に対抗したのに対し、AKP(公正発展党)はEUに、EUの基準に沿った言語を選んだのを我々は見てきた… 当時を振り返ってみよう。「EUの基準はトルコを分裂させている。EUプログラムにはクルディスタンが含まれている」と主張する「世俗主義の支持者たち」は民主主義法案に反対していた。
■問題は宗教と宗教主義者なのか
私たちは、AKP政権も、イスラーム世界で議会制複数政党制を主張するイスラーム主義者も、民主主義と自由の観点から批判する。彼らも国会の議席の分だけ「自由を制限する傾向」を奨励しているのが見受けられる。自分たちの考えを社会に押し通す可能性もある。私たちはこれら全てを批判し続けていく。暴力と圧力が「宗教」に基づいて正当化されそうな場合は然るべき抗議を行っていく。
いろいろと述べたが、次の点は真実だ。ある人物が先進的または後進的であるということを、その人の信仰や宗教主義でもって説明することは不可能だということだ。世俗的か宗教主義かということではなく、大切なのは「あらゆる信仰と嗜好を自由に表現できるシステム」だ。私が考える「民主主義」とはこういうことだ。
「宗教主義殺人犯」という表現も問題のある表現と思う。「宗教」は非常に幅広い社会的現実に対応している。自分を「宗教」で定義する人々の中には(自分を「世俗主義」で定義する人々と同じように)、殺人犯も、自由主義者も、平和主義者もいる… 例えばイラクを支配して大量虐殺を行ったアメリカ軍を「世俗主義殺人犯」と呼ぶことはいかに正しいことだろうか。
■イスラーム恐怖症、イスラーム主義ファシズム
「イスラーム主義ファシズム/イスラーム恐怖症のジレンマ」に至っては… 近年イスラーム世界で高まる暴力への傾倒や、アルカイダ、イスラム国、アルシャバブ、ボコ・ハラムの実際の動機や起爆剤が「イスラーム」であることに帰する分析が増えている。
イスラーム世界で増長する暴力を、アフガニスタンやイラク、パレスチナで起こったことを正しく理解せずに説明しようとすることは、問題に対して西洋的な世俗主義の色眼鏡で見ているということだ。イラクをめちゃくちゃにして、バラバラの状態にし、これらの国々の人々を手立てのない状況に追い込む本当の原因はこの占領ではないのか。イスラム国はどこから生まれ、なぜ広範囲に影響力を持つことができたのか。
当然、「イスラームは人殺しや暴力に反対する」という言説も、暴力を宗教で正当化しようとするテロ組織に対しこの政治的真実の中では影響をもつことはないだろう。
■暴力を一つの抗議として正当化すること
一方では野蛮な虐殺を宗教で定義しようとする者がおり、他方では欧米に対する抗議という名前のもと、「彼らは良くやった」という意味で分析をする者がいる。しかし暴力には宗教的信念はない。
殺人はいかなる理由でも認められず、正当視されえない…
この記事が書かれている最中、襲撃の容疑者たちが警察の作戦により殺害された。この組織犯罪の跡を辿り、真犯人たちを明らかにすることはますます困難になってしまった。
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翻訳者:南澤沙織
記事ID:36477