Oral Calislar コラム:アルパスラン・チュルケシュの語った、息子トゥールル―入閣
2015年08月28日付 Radikal 紙
トゥールル・チュルケシュ氏は、民族主義者行動党(MHP)の創設者であるアルパルスラン・トクルケシュ氏の最初の妻との間に生まれた5人目の子ど もだ。私はアルパルスラン・チュルケシュ氏と1980年9月12日軍事クーデターの後、同じ刑務所で1年間以上共に過ごした。多くの会話を重ねる中で、彼 の口から息子であるトゥールル氏のことも聞いた。
MHP所属の国会議員であるトゥールル・チュルケシュ議員は、選挙管理内閣への入閣を承認したことにより、トップニュースに上がった名前の一人となった。 二極化の可能性が高まり続けるこの条件下でMHPから厳しい反発を受けるチュルケシュ議員が、新しい政府で副首相に任命されるという噂もある。
■5人目の子ども
トゥールル・チュルケシュ議員は、MHPの創設者であり初代党首のアルパルスラン・チュルケシュ氏と最初の妻との間に生まれた5人目の子どもだ。私はアル パルスラン・チュルケシュ氏と1980年9月12日軍事クーデターの後、1年間以上ともに同じ刑務所で過ごした。多くの会話を積み重ねる中で、彼の口から 息子であるトゥールル議員のことも聞いた。このとき聞いた話を、私は本にまとめている。(『指導者の刑務所』エヴェレスト出版)
トゥールル議員は、父親が刑務所にいる間にサイト・ビルギチ氏の娘と婚約し、その後ジェラル・バヤル氏が証人を務めた挙式で結婚した。
トゥールル議員が婚約した夜、アルパルスラン・チュルケシュ氏は拘置所におり、悲しみに暮れていた。息子の婚約に立ち会えなかったことが、彼の身体を震わ せていた。その夜、拘置所の一室で彼と話をした。「オラルさん、今は心を鎮めるべきなのでしょうが、ご覧なさい。ついにエジェヴィトまで逮捕されてしまっ た。(その日は前大臣の一人であるビュレント・エジェヴィトも逮捕され、私たちと同じ中央司令部の陸軍語学情報学校拘置所に移送されていた。)私もとても うんざりしています。今夜、息子は婚約します。一人息子の婚約に立ち会うことができないのです。心臓が締め付けられているようです。」
チュルケシュ氏に「トゥールルさんは一人息子ですか?」と尋ねると、最初の妻との一人息子だという答えが返ってきた。2番目の妻との間にも、息子が一人い るという。「婚約したのは5人目の子どもです。娘が4人続いた後に生まれました。そもそも娘だろうが息子だろうが、私にとって変わりはありません。亡く なった妻には、いつもこう言っていました。『悲しむな、私は娘に囲まれて幸せだ』と。」
■4番目の娘
MHPの創設者であるチュルケシュ氏は、4番目の娘が生まれた時の話をするとき、まるで過去を旅しているようだった。「3人の娘を授かった後、アンカラで 私が大尉を務めていたときに妻が再び妊娠しました。以前はメヴキ病院(在アンカラ)の向かいにある陸軍士官学校の隣に住んでいました。そのため妻をその病 院に連れて行きました。医師らは非常に困った様子で、妻が妊娠していることがわからなかったようでした。そんなうんざりするような時間が続き、アカイにあ る専門家がいて、彼は婦人科の専門医だったので、結局彼の元に連れて行きました。そのとき15リラ払いました。当時は大金です。医者は妻が妊娠しているこ とを告げました。妻はとても悲しんだ。私は『悲しむことはない。おめでたいことではないか』と言いました。妻は中絶を望まず、『生むつもりです』と言いま した。」
「もちろん、当時子どもを生むのはとても難しかった。イスタンブルへ行き、知り合いの婦人科の先生が妻の出産を助けてくれました。そして4番目の娘が生まれたのです。」
■トゥールル氏のミドルネームはデニズ
「息子を授かったのは1954年のことでした。イスタンブルにいたときです。妻はとても上品な人でした…本当に、彼女が汚い言葉を使ったという記憶がない ぐらいです。しかし、息子を授かったことがわかったとき、病院の帰り道で妻と腕を組もうとしたのです。全くそんな様子には見えなかったのですが、初めて 『腕を離して。また子どもを生むことになったのは、あなたのせいよ。』と言って、私に怒っていました。」
トゥールル氏は、4人の娘を授かった後のアルパルスラン・チュルケシュ氏にとって初めての息子だった。「息子は私が不在の時に生まれました。妻は陣痛がく ると(カスムパシャの)デニズ病院に搬送されました。そしてそこで出産しました。私が病院に着いた時に、家族は息子にデニズというミドルネームを付けまし た。私も家族の要望を受けてユルドゥルムと名づけました。」
こうしてトゥールル氏には3つの名前がついた。デニズ・ユルドゥルム・トゥールル・チュルケシュ。4人の姉に男一人の姉弟だ。妻のムザッフェルさんにとっては最後の子どもとなった。
「姉たちは弟ができると非常に喜んで、母親たちを煩わせることなく彼の面倒を見てくれました。息子に結婚を持ちかけたのは私です。年齢も熟しましたし、経 験も積みました。様々な女性とお付き合いし、難しさも学びました。ハジェテペの学生だったときのことです。『お前に銀の弾丸を用意した』と言って息子を脅 した者たちがいたようです。私は『息子よ、学校に通うのは諦めなさい』と言いました。『もしお前を失うようなことがあったら…勉学と命と、どっちが大事な のだ!』と彼に警告しました。そのため6年で学校を卒業しました。息子が女性と付き合うと、『息子よ、そんなことはするな。女の子たちは友達として付き 合っていても結婚を意識してしまうだろう』と私はよく言ったものです。」
■ステート・ジャーナル
これは運命なのか、トゥールル・チュルケシュ氏は「ステート・ジャーナル」で働きながら政治の世界に足を踏み入れた。「私は息子に常々人生の準備をさせよ うとしました。『国家』という名の雑誌を発行していました。サディ・ソムンジュオール氏が編集長でした。私はサディさんに息子を働かせてほしい、週に50 リラの報酬を渡してほしい、そのお金は私が払うと言いました。息子は高校生の時、夏休みはステート・ジャーナルで働きました。一度はイスタンブルのヴェフ ビ・コチ氏にもお願いし、工場で働かせてもらいました。『私の息子であることは誰にも知らせないでほしい』と強くお願いしました。息子は母親に『すごく疲 れる』と愚痴をこぼしていたようです。」
父親であるアルパルスラン・チュルケシュ氏はトゥールル氏の婚約日の夜に、その当時はまだ若者であった息子をこのように語った。当時、トゥールル氏は27 歳であった。あれから34年が過ぎた。アルパルスラン・チュルケシュ氏は、もうここにはいない。チュルケシュ氏の二人の妻との間に生まれた息子の一人であ るアフメト氏は一時期公正発展党(AKP)の、そしてトゥールル氏は長い間MHP所属の国会議員であった。
■浪費家なのか?
政治生活における極端な二極化は、MHPの伝説であり疑う余地のないリーダー、「最高指導者」であるアルパルスラン・チュルケシュ氏の息子をも危機的な状況で「批判の的」にしてしまっている…入閣を承諾したことにより、彼は「浪費家」という非難の声を浴びせられている。
トゥールル・チュルケシュ議員は、「国家を無政府状態にしないため決断した」と話す。これは、「行き過ぎた二極化と立ち向かう歴史的な判断」として評価すべきだ。
その一方でMHPの総選挙後の戦略はというと、チュルケシュ議員が入閣を承諾したことにより深刻な打撃を受けた。同じように入閣を要請されたケナン・タン ルクル国会議員が辞退しなければならないと感じたことも、MHPを厳しい状況に立たせることとなった。そのため、MHPからチュルケシュ議員に向けた非難 の声には行き過ぎた感があるのだ。
結果として、トゥールル・チュルケシュ議員は政治的伝統における重要な人物の一人となった。彼による和解に向けた行動は、政治における一つの模範的行動として影響を及ぼすことになるだろう。飛び出す勇気の先例としても話題になっている。
今、民族主義運動はトゥールル・チュルケシュ議員にとって、「裁判を受けて変わったのか、それとも変わらなかったのか」という議論ができるだろう。おそらく、彼自身の中で…
歴史が変わる…
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翻訳者:指宿美穂
記事ID:38531