Abbas Güçlüコラム:この混乱は、どこまで・・・・
2015年09月09日付 Milliyet 紙
またしても新たな犠牲の知らせが飛び込むのではと毎朝、おびえながら目を覚ますようになった。眠りにつく時も同じだ。
さて、この混乱は果たして、どこまで続くのだろうか。もうおしまいにしてくれと言ったそばから、続きが現れる。決まりきった言葉を聞き、落胆する。
一体、我々はこの映画をあと何回、観ればいいのだろうか!
映画の脚本を少しずつ変えては我々に見せているやつらに文句を言ってやりたい。
脚本も、脚本家と出演者も、結末も分かりきっているのに、我々はまだ映画を観続けているのだ。まるで、再々放送さえも繰り返し観ていたいつぞやのTVドラマだ!
■教育に飛び火させるな!
小中学校の始業は延期されたが、大学は徐々に始まっている。混乱した状況とテロは決して、大学に飛び火してはならない!エルドアン大統領が学長たちと面会し、このことについて綿密に話し合っているように願う。
あの9月12日の前日を学生として過ごした者として、テロがどのようにして大学を捕らえ、どのようにして少しずつ広がり、いつもどのようにしてその代償を大学に払わせるか、我々は詳細に知っている。
だからこそ、不安なのだ。不安はより大きくになったとも言える。
何にせよ、テロが大学に飛び火してはならない!
■教員たちの安全
また、教員も命の危険にさらされ続けている。大っぴらに脅かされている、と主張されている。この状態で仕事をしている人たちは、どうやって学校へ行き、どうやって守られるのだろう。警察や軍さえ充分に身の安全を確保できないこの状況で、さらに無防備な教師たちの安全確保のため、もっと熟考すべきではないだろうか。
何十人もの教師たちが犠牲となった年月を覚えている。そして神よ、あの日々を我々に繰り返させないでくださいと言っているのだ。
穴だらけの燃えさかる校舎、明日のことを心配する教師たち、子供の帰宅を不安の中で待つ親たち。あの日々はもはや、過去のものであってほしい…。
■これは地理的宿命か?
昨日もまた、4人の警察官が命を落とした。我々の心は喪に服した。犠牲者たちに神のご加護を、家族には忍耐をと祈るばかりだ。中東とトルコを血の海に変えた人々は今、ほくそ笑んでいるに違いない。
彼らの手口に陥るまいとしても、必ず真逆の結果になる。彼らもまた、存在し続ける。最悪の状況に陥りたくはない。他者に助言するのを好む人々は、とにかく少しでも他者の声に耳を傾けるがいい。
要約の、さらに要約はこうだ:もうたくさんだ!
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翻訳者:川原田嘉子
記事ID:38643