Murat Yetkinコラム:ムスタファ・コチとジョー・バイデン

2016年01月25日付 Radikal 紙
ムスタファ・コチは、1月21日に55歳で心臓疾患の末に亡くなった際、トルコの最も大きな産業グループであるコチ・ホールディングのトップであった。

トルコの国家収入の10%近くを、輸出の15%近くを(自動車輸出は45%)、8,000人近くの従業員とともに産み出しているコチは、フォーチュン誌の最も大きな会社のリストにトルコからランクインした会社として認知されている。

ムスタファ・コチは、ムスタファ・ケマル・アタテュルクのリーダーシップで建国されたトルコ共和国の初期の実業家のトップである祖父のヴェフビ・コチの跡を継いだ3代目の会長であった。父であるラフミ・コチの経営を2003年に引き継いだ後、グループをさらに大きくする投資を行った。

コチ・グループは、何十年もの間トルコの最大の実業家として右派からも左派からも批判の対象となった。

しかし、この反感は、2013年6月のゲズィ公園プロテストの後から変化し始めた。警察の催涙ガスと放水を受けて逃げたデモ参加者の集団が公園のすぐ後ろにあるディーワーン・ホテルに避難しようと望んだのは、この変化の象徴的な役割を演じた。

コチ・グループの系列であるディーワーン・ホテルの経営者たちは、負傷者を含むグループたちに扉を閉ざさず、さらには治療の場も設けた。

そのため、当時の首相タイイプ・エルドアンおよび公正発展党政権、政府系のメディアからムスタファ・コチは怒りを買った。

ウルケルと共に落札した大きなインフラ工事の入札、六隻の船について合意し二隻を引き渡した防衛関連の入札は、その当時解約された。

その立場を崩さずに、さらには弟のアリ・コチの批判的な意見も聞きながら政府と再び仕事を始めた。

国内生産の10%、輸出の15%を占めるコチの力を政府も考慮した。大統領エルドアンは、コチが亡くなる前日の夕方1月20日にコチが自分を訪問してきて、防衛プロジェクトについて話したこと、さらに酒を飲まないことについて「冗談を言い合った」と話した。家族と親戚以外でコチと最後にあったのはエルドアンだった。

何があったのか。コチの死去について、彼を批判してきた人々を含む社会の様々な人々から心からの悲しみの弔辞が届いている。週末に父親であるラフミ・コチがディーワーン・ホテルでの通夜でたくさんの弔問客を受け入れた。昨日の告別式にもたくさんの人が訪れた。

コチへの湧き上がる共感の波の大部分を占めるのが、彼を知る人皆が口にする(相当の資産家であるにも関わらず)謙虚なところ、いい父親であるところ、社会的に責任のあるプロジェクトへの貢献、こうした良いものである。

この共感の波には、トルコの顔が西側に向き、多元的で世俗的な生活様式を守りたいが、あまり大きな声を挙げるとおそらく裏切り者といった声にさらされることを懸念している人々がコチの過去の態度を無言で支持していることが関わっている。

少し長くなったか。問題は全く簡単ではない、そこからである。もう少し詳しく説明するために、同じモダニスト、自由主義者、世俗的、民主的な人々が、アメリカの副大統領ジョー・バイデンが最近のトルコの訪問について出した答えを見ることが有益である。

バイデン副大統領は、1月23日にイスタンブルで大統領エルドアンと首相アフメト・ダヴトオールとシリア、イラク、イスラム国、PKK(クルディスタン労働者党;非合法)、民主統一党(PYD)についての会談の前に、1月22日にまさに権利と自由について示威行為をおこなった。

その時点で誰とも話しあつていなかった。議会とクルド問題の将来、職を失った新聞記者と報道の自由、ジャン・デュンダルの妻ディレキと息子のエゲ、デュンダルとエルデム・ギュルが2カ月近く収監されていること、その後あの要望書に署名をして、裏切り者と言われた大学職員の状況、つまり今日トルコで話題にすることで問題が生ずるすべての話題をである。

バイデンは、この行為をおそらくアメリカが基本的で普遍的な権利をどれほど重要視しているかをアピールし、最近トルコから出ている「シリア難民とイスラム国と の戦いで要望を実現するためにトルコ政府を怒らせないため人権侵害については触れなかった、アメリカとEUは」との批判に答え、政府だけに「やろうと思えば、あなたを不快にさせられる、望むものをあなたがくれないならば」というメッセージを与えるために行った。

実際ヒュッリイェト紙のデニズ・ゼイレキの記事から、トルコはPYDの問題でアメリカといまだに相違がある、と読み取れる。

例えばシリアと国境の危険地帯の門の閉鎖について見解の一致に向かっている。

そして、イラクのバシカキャンプがトルコの教育キャンプであることを越えて、トルコ軍とイラク軍を含む形で「多国籍教育キャンプ」に変わるという形が造られた。

しかし、西側つまりアメリカとEUがさらに一層トルコに政治的・軍事的な要求ををおこなって、受け入れなかった時期には、人権の批判が高まり、時には人権を外交政策の道具として悪用していたことを知っていたとしても、トルコ知識人の西向き、自由主義的、世俗主的、民主主義者層は、こうした時に訪れたバイデンの支持に、口先だけに止まることになるしても、これを信じたがっている。

ムスタファ・コチが亡くなって高まっている共感・支持の波でも、バイデンがトルコから安全保障上の請求をする前に、人権と表現の自由といった問題を取り上げたことについて社会のモダニストな人々の間で広がる共感の波においても、実際には彼らの閉塞感の徴を見ることができる。

この問題についてではなく、最後にあることを付け加えたい。

カメル・ゲンチも1月22日で亡くなった。トルコの政治を彩った一人である。憲法と議会の内情をもっともよく知っている政治家であった。ある時は一人で出口にいて、たいていは話をしてくれた。ある時はトゥンジェリの有権者の唯一の代弁者であった。トルコの世俗的な仕組みを決然と、さらに時にたたき壊すほど訴える人物の一人である。

コチの昨日のイラヒヤト・モスクでの葬儀の後に、ゲンチはカルタル・ジェムエヴィの葬儀で見送られた。

コチとゲンチよ安らかに。


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翻訳者:新井慧
記事ID:39727