ラディカル紙が閉鎖されてから、改めて「お別れ」の記事を書く機会が私たちに与えられた。これは良いことだと思う。正直、何名かの人々に感謝の意を伝えずに筆をおくことはできなかったのだ。
ドアン・グループでの10年近い私のキャリアは、2006年の年末ごろにレフェランス紙において始まった。役職は主筆であった。レフェランス紙に書いた記事は、その日のうちにヒュッリイェト紙のウェブサイトに公開されていた。
私がラディカル紙に書き始めたのは2008年のことだった。レフェランス紙が2010年に廃刊となるまで、私の記事はレフェランス紙・ラディカル紙・ヒュッリイェト紙の3紙に公開されていた。おそらくトルコの報道史上、私のような立場にいた人物は今までいなかっただろう。
このように、記事の名義は私だった。しかしそれらが読者に届くまでには、私が感謝してやまない同僚たちの力添えがあった。2006年から2016年に至るまで、私の記事に労を取ってくれたギョクチェ・アイトゥル氏、ムヒッティン・ダヌシュ氏、ジュネイト・ムハッレムオール氏、そしてバハドゥル・オズギュル氏へ心より感謝する。
この「別れの記事」を最後に、私の40年にわたる新聞記者人生にもピリオドが打たれることとなるだろう。
その終わりの日が来たことを知ったのは、私にとっても象徴的な日であった。その日は亡くなった父の誕生日であり、母の命日でもあった。
書き終えた記事をラディカル紙へ送ったちょうどその時、家内が「ラディカル紙が閉鎖されたらしい」と言うのだ。顔を上げてみると、「Twitterでそのことを読んだ」と、驚きを隠せない様子であった。
「そんなことはありえない」などと、私は思わなかった。ここ最近のトルコでは、そういうことも十分にありうるのだ。40年にわたる私のキャリアに全くふさわしくない形でそれを知ることになろうとも、そのことすら全く不自然ではなかったのだ……。
実際、ラディカル紙は本当に廃刊へ追い込まれたのである。
この知らせを受けてから数分後、幾許か前に送った記事の最後の行で、いわゆる「太字化」を忘れたことを思い出した。友人たちに電話をかけ、「太字化」するように頼んだ。その時私は、記者としてたくさんのことを教わり、常に師と仰いでいたアルタン・オイメン氏の記憶がありありと蘇ってくるのを抑えることができなかった。
それは80年代のことだ。トルコではまだ軍事政権の時代が続いていた。アルタン氏は欧州理事会でトルコをめぐる議論を傍聴し、その場で正確な記事にして電話ボックスから執筆を指示していた。それは見事なものだった。
私はアルタン氏の記事をジュムフリイェト紙で編集していた。受話器を肩にはさみながら、彼が読み上げることをキーボードで打ち込むこと、記事にタイトルをつけること、記事の入力を管理することが私の責任だった。
1981年、メフメト・アリ・アージャがローマ教皇ヨハネ・パウロ2世を銃撃した日だった。各紙のページが新たに調整しなおされ、印刷所でそれらのページがつなげられていくなか、私は同業者たち横目にアルタン氏の記事についての編集を舞台裏で入力するのに大忙しだった。編集というのは、欧州議会においてアルタン氏が記事を書かせていた日中の時点では知らなかった人物名、その中でも特に重要だと彼が考えた人物名を記事に反映させるという作業だ。しかし、たったそれだけの詳細情報を加えるために、その混沌とした歴史的な夜、印刷機をフル稼働させることは、ハサン・ジェマル総編集長をヒステリックにさせたものだ。
そして2016年のことだ。トルコにおける文民の権威化は頂点に達しようとしていた。ラディカル紙は廃刊に追い込まれ、私の現役記者人生もこうして終わりを迎えようとしていた。そして、そのことを最も非公式なルートで知った時でさえ、私はアルタン氏から伝染した「デフォルメのプロ」という性分に苦しめられていたのだ。
我らが生業は、その不可欠な掟の一つである「細部の関係性」によって最後のゲームを私に挑んでくるかのようだった。
私たちの世代は、新聞記者という仕事を正しく行い、先人たちを継承し未来に伝えていった世代だった。
中東関係の新聞記者にとって、私たちの世代における国際的な「アイドル」といえば、フランスのル・モンド紙の伝説的な特派員であり、国際政治部の編集長だったエリック・ルーロー氏である。
やがて、私たちは非常に近しい友人となり、彼は私の記者としてのあり方に自然と大きな影響を残した。
つい一か月前、エリック・ルーローの一周忌がル・モンド紙で行われた。式典のさなか、当時一世を風靡した彼の考え方が私の脳裏をかすめた。
記者としての40年にわたる私の経験と近年起こっていることを照らしてみれば、私たちが何十年もかけて取り組んできた、あるべき姿の新聞記者という仕事が喘ぎ苦しんでいることを確かに見て取ることができる。
そもそもこの仕事に必要だったのは、明確な規範に基づくことをよしとするような国としての雰囲気、そして最も重要なのが、(そういったことを可能にする)諸組織の存在だっただろう。
前者はほとんど消え去ったと言える。後者も、急速に消滅していた。この光景を目の当たりにすれば、ラディカル紙の命がもう長くないことに気づくのも、そう難しいことではなかっただろう。
ところが、ラディカル紙は2年前にデジタル配信のみに切り替えてからも生きながらえた。さらに世界のトレンドが紙媒体からデジタル配信へ傾いていくなか、ラディカル紙は絶好調であった。
生きのびた理由の一つは、トルコが持続可能な民主主義政権を持つ可能性がまだあったことである。また、新聞社を存在目的に沿った形で運営していくための組織的な文化・意志力も当然必要とされた。
トルコにおける民主主義の終焉とラディカル紙の寿命は、互いに並行して進んでいった。
トルコが2016年を迎えてからは、ラディカル紙の命が終わりに近づいている兆候は十分に存在していた。ラディカル紙が生き残ることは、ますます困難になっていた。
しかし、まったく突然の死であった。
そういう死に方は、逝く身にとっては楽な終わり方だ。痛みは残された者たちに残るのである。ラディカル紙の死は、自由で民主的なトルコを求める全ての人にとって埋め難き損失だ。
この国が健全であることのために、私は人生をかけてきた。しかしそれが行き着いた先を見ると、私は非常に深い哀しみを覚えずにはいられない。
今、私は40年間の記者人生にピリオドを打とうとしている。
この日が来ることはわかっていた。それが今、このような形でこようとも、それはある意味自然なことだ。なぜなら、我が国が経験してきたこの時代において、私の声が消されることで利益を得ようとしている人々が、私の声に寄り添う人びとを重く抑圧しているからだ。
私が言えることはこれだ。40年間、トルコ全土で、そして世界のあらゆる地において、時には非常事態の中で、私はこの仕事を常に大きな喜びをもって続けてきた。
そのうちの24年間は前世紀で過ごした。最後の四半世紀を動かした多くの歴史的出来事の現場で、歴史に名を刻んだたくさんの人物と直接に知り合った。
自分のチャンスを切り拓き、同時に幸運も手にした。私としては、良い40年間になったと思う。
そのほとんどの期間をコラムニストとして過ごした。毎週3-4本の記事を書いた人間が、今までミスを犯さなかったなどということは考えられない。私とてこの一般法則に例外を打ち立てることはできなかった。私の正しい洞察と解釈が、それまでのミスに対してなんとか勝どきを上げることを望むばかりである。そして、それらが読者の方々に恥じないものとなっていることを願うばかりだ。
「この丸屋根で永遠に残るのは、心地よい音色なのだ」というように。
それでは、お元気で!
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翻訳者:今城尚彦
記事ID:40214