Nuray Mertコラム:ああ、最後のチャンスを逃すのか?
2016年09月02日付 Cumhuriyet 紙
今まで多くのチャンスを逃してきた。解決策を見つけられていないのだ、トルコは!2000年代に「軍部の後見との闘い」「民主的改革」を唱える一方で、我々がたどり着いたのは保守派が権威をもつ政治的構図である。2013年にはクルド和平プロセス、交渉と言っていたが、事態はさらに悪化した。
7 月15日に起こったクーデター未遂事件の後、人々は「民主主義」という言葉を口に出せなくなってしまった。緊張状態が僅かに緩まったとは言うが、我々は今回もまたチャンスを逃す方向へ確実に歩みを進めているのだ。
事件の後からかなりの時間が経った。しかしまだ完全に[事件の中身が]判明したわけではなく、代わりにフェトゥフッラー派テロ組織(FETÖ)という怪奇譚が語られ続けている。FETÖの問題を、まるで「自然災害のような、避けられない危機」のようにみなければ、あとで大変なことになる。
エルドアン大統領は7月15日のクーデター未遂事件においてこの国の諜報組織を非難し、とても大きな問題になるはずだが、まさになぜ非難したのか、その後事件の全貌をなぜ隠してしまったのか、明らかではない。返答した大統領の「谷を越える際は馬を代えない」という説明に満足しない者の仕事がこの国で容易ではないというのは明白だ。この事件と同様、これ以上我々に追及されたくないであろう多くの問題がある。
さて、7月15日の事件はひとまず脇に置こう、明らかに繊細な話題である。どの問題でも、我々は説明を待っている余裕はない。「ダウトオールはなぜ去ったのか」という問題と同じく、最近の「エフカン・アラ[内務大臣]はなぜ去ったのか」という問題の説明もない。我々に説明するという謙遜さえもない。一国の内相が辞職しているのにその理由を説明しようとしない、意味のない「引き継ぎ式」の雰囲気でヒロイズムの[演出の]外、国全体大いに関心を抱かせる問題は、「祖国、民族、サカルヤ」の演説によってはぐらかしている。
7月15日のクーデター事件以降、「民主主義的ヒロイズム」の他に何も主張されていないように見える。「社会的で政治的な和解の雰囲気」が捉えられたと言う一方で、「新司法年の開幕式」をきっかけに意図されていることが全権力を大統領府に集めること、このことを一層良く理解したのだった。国が模索している「平穏な」環境というのが、子羊が声を立てない種類の平穏さであることとわかっている。私に「ほかに何を期待していたのか」と反論する人もいるだろう。
誰も現政権が突然民主的になることを期待するほど無垢ではない、しかし最早問題は民主的かどうかということでさえなく、この国が崖っぷちから戻ることであった。政権周辺がこれを理解するのを期待するのは楽観的とはいえないが、明らかなのは、ちゃんと理解しておらず、したがって崖っぷちで彷徨い続けるだろう。
その崖っぷちにはクルド問題、シリアのような大きな問題もある。問題の難解さと、この難解な問題を出来るだけ早く解決する必要性は一旦おいて、クルド人の権利と自由を擁護した他に一切の罪がないのが周知であるアスル・エルドアンとネジミイェ・アルパイといった著名人の逮捕は、小さな希望さえも消してしまっている。
単に思想の自由、民主主義、人権といった基本的な諸価値が無視されていることについて語っているのではない。問題は、最早トルコの将来という点で、クルド問題を解決する能力があるかないかである。この考えで、この大きな問題は解決されるのだろうか?PKK(クルディスタン労働者党;非合法)は衝突から利益を得ているかもしれない。まさにそれ故に、衝突している現状を変える必要はないのか?
最悪なのは、このような状況下で、短期的視野から、またその他の計算によって、人々を「テロに呪いを」という名のもとに駆り出そうとする人々が現れることだ。このような人々のうち髪が金だったり赤かったりする人が、出演しているテレビ番組で、ここ暫く、人々を通りに繰り出させるような不吉な呼びかけをしている。そのような人が背負う卵の籠には人としての愛情はなく、たんに権力への愛で満たされたもので、このような朧げな状況でこのような人々とは距離をとる必要がある。
忘れないで、「テロの協力者」とレッテルを貼りあなた方が逮捕した多くの人々はこのような人々よりはずっと安全だ。過去に多くの例を見てきた。もう二度と見たくはない、目下の問題は危機に瀕した我々の国の未来である。
この記事の原文はこちら
翻訳者:福永千夏
記事ID:41150