Ismet Berkanコラム:正義は復讐のためではなく、国家の基本である
2016年09月13日付 Hurriyet 紙
第二立憲君主制が1908年に宣言されたとき、オスマン帝国支配下のすべての地域で街頭に出て行った、喜びに満ちた群衆が掲げたスローガンのひとつで、フランス革命の有名なスローガンである、「自由・平等・友愛」に、一つのコンセプトを加えた。それは「正義」である。
私たちはどういうわけか、国家をとても愛しており、それを聖なるものとして見ている文化に属している、そして、すべての裁判所の法廷には「正義は国家の基礎である」と書いてあることを誇りに思っている。
正義は、本当に国家の基礎である。 正義を分け与えることができない、正義を公平に分配することができない制度では、「国家」と呼ぶことはできない。
しかし、来て見ていただきたいのだが、この土地において、「正義」への望みは決して終わらない。 1960年代と1970年代に与党の名前が正義党(AP)であったことは偶然ではなかった。
今日、14年間与党である政党の名前に「正義」という単語が入っていることも、偶然ではない。
■100人中93人の犠牲者を生み出す「正義」
法務省が毎年出版する「司法統計」に基づいて行った計算がある。
重大な犯罪のためだけにこの計算を行った。 私は以前に数回書いた。再び、思い出させる必要性を述べた。:
検察官たちは、その訴訟が、重罪刑事裁判所において扱われる、トルコ刑法の条項に基づいて(手続きが)開始される、100案件のうち45案件だけを訴訟している。 残りの55人、つまり、平均して二年以上続く取り調べにおいて拘留されている者、拘束されている者たちは、電話を傍受され、生活が一転しようが、裁判所で扱われることがない。しかし、あなた方はすぐにわかるであろう、犠牲者であるにもかかわらず、これらの55人は、実際は幸運であると。 人生の中で、この悪夢はわずか平均2年間だけである。
起訴され、訴訟された45人のうちそれらの23人は、平均で2年間続く第一審裁判において無罪となる。 言い換えれば、45人中22人は、第一審裁判において有罪判決を受けている。
その後、上訴過程、つまり、最高裁が始まる。この22人のうちたったの7人についての刑罰が確定して、残りの人々が受けた刑罰は、様々な理由により解消されている。
ここにおいて、この国の「不公平」もしくは「正義の問題」は、これらの数字に反映されているものである。 制度は、正義を作り出すよりも多くの犠牲者を生み出している。取り調べを受けた100人のうち、93人を犠牲者にしている。
■正義のためか、復讐のためか?
さて、これら93人全員が罪のない犠牲者なのか? いいえ、そう述べることは不可能である。しかし、以下のことは述べることができる。制度は、少なくともこれらの人々の少なくとも一部を有罪とする証拠を見つけられない、彼らを裁判にかけ、有罪にすることができない。その代わりに、犠牲者を生み出している。
この犠牲者達が生み出されることが始まる場所こそが、検察である。 国において、司法制度を補正し始めたいのであれば、検察から開始する必要がある。
検察は、ほとんどの場合、有罪とすることはできないと知っていながら、人々についての取り調べを行う。さらに、起訴状を用意し、それらを裁判所へ送る。
思いついた最も印象的な例は、有名な「(サッカーのベシュクタシュ・チームの応援団である)チャルッシュ訴訟」である。検察は、この人々について、「集会およびデモ法律への違反」により訴訟するところを、「クーデター未遂」として訴訟した。 最終的に、全員が無罪とされた。
取り調べ、そしてその後の訴訟もこのように無差別に行われるとなると、人々の心にいや応なく、「実際、この取り調べ、は、人々をしょっぴいておくため、ある一定期間、拘束して刑務所に拘留するため、人々にただ単に復讐するために、行われているのか?」、というような考えに陥ってしまう。
■アフメトとメフメト・アルタンの状況
クーデターの後に、取り調べされ、拘留され、逮捕されている数十人のジャーナリストや記者の状況を見ていこう。
そこにクーデターの試みのようにめちゃくちゃ具体的な犯罪があり、また、この犯罪の第一義的な容疑者がはっきりしているときに、非常に不明瞭で、非常に漠然とした(「7月は暑くなる」と述べ、彼はクーデターを前から知っていた。;「サブリミナル」のメッセージを与えた;テレビにおいてフェトフッラー・ギュレンについて丁重に話した。)といったことでもって、犯罪扱いすることが、社会的正義の探求へ貢献するものはなにであろう?
最近では、私が子供の頃から個人的に知っていた、アフメトとメフメト・アルタンが拘留されたことは、私たちは正義ではなく復讐を求め、私たちが嫌いな人々を貧相な理由でもって刑務所へ送り込みたいのかという印象を与える。
なぜ私たちはクーデターに反対しているのだろう? それは、非合法そして違法な方法を通しての権力を取らせたくないからである。では、そうした人々と戦おうといって、違法の側へ転落してしまったら私たちはどうなるのであろうか?
「正義は国家の基礎である」という言葉は、無駄な言葉ではない。復讐もしくは恣意的な刑罰ではなく、国家の基礎、それが正義である。
この記事の原文はこちら
翻訳者:岩渕麗奈
記事ID:41245