Nuray Mertコラム、怒り、それだけ
2017年01月02日付 Cumhuriyet 紙
責任が「国を統治する人以外」の全員にあると宣言された悲劇を私たちはまた経験した。あなた方にひとこと言わせてもらおうか。国を統治する人々がいかなる状況でも「責任」を負わない国ではあらゆる悲劇が起こるのである。私は、単に「安全措置」の問題の責任について述べているのではない。なぜならば、「安全」も結局のところ政治的な問題であり、どれほど安全措置を取ろうとも弱点はあり、根本的な措置は政治的な措置であるからである。そうした状況で、 政治について私たちが語らなかったならば、言葉は必要ない。私たち皆が現状に怒っている。私たちは、さらに、もっともっととても怒っている。一緒に一人一人でも怒っている。再び怒っている。さらに怒っている。怒ってきたし、これからも怒るだろう...。
根本的な問題は政治なら、じゃあ語ろう。「我が国は戦火にあり、四方から攻撃にさらされているのか。」それはなぜか。私たちを嫉妬しているためなのか。なぜ突然この国に敵意をむき出しにしたのか。「トルコは上昇する星であり、イスラム世界の希望」であるため、それを妨げたいと思われたのか。身の上に起こる事を阻止できない国が、どうやって皆を嫉妬させ敵意を招く力を持ったのか、どうして突然このような状態に陥ったのか。意見を持っている人々に正直に説明してくれと問おう。たとえ全ての主張が正しかったとしても構わない、私たちはこの条件の下で何をすべきか。「一致団結」してこの国の敵と戦うのか。もちろん戦おう。しかしどうやって一致団結して。最大野党がテロを支持したと告発され、年の終わりに新聞記者で友人のアフメト・ シュクの逮捕もテロ支持と結びつけられ、政権周囲が自身以外の人々を脅し、侮辱し尽くす国で、一致団結とは何か。
テロへの怒りについて一致団結しないことは本来不可能である。その人道的な務め、その一歩先には?。理解はおろか、最低限の共通の環境で自由に議論して話し合うことが可能なのか。政権周囲は、国の秩序が大統領制の名のもとに権力を一個人に集中する体制を構築中であり、それが叶わないならばこの国が分離し、降りかかる災厄から救われないと考えている。考えているに留まらず言い張っている。民主的な野党という名の下、私たちは、正反対のことを考えている。国の秩序は、より一層の民主主義と民主的なシステム[により構築される]と考えている。どれほど私たちは議論できるのか、民主的に反対を表明できるのか、このような自由な場所、土壌はあるのか。反対の声がかすかに漏れるのを調整する、フィクションのテレビ番組を数に数えなければ。最大野党は民主的な闘争において影響力がない。本当だが、さらに影響力があったならば、どうなるか。議会では多数決の原則が働いており、社会的な和解のための話し合いや融和の努力は議題ともなっていない。融和というのは、与党べったりの民族主義者行動党みたいな例である。それ以外の者は、裏切り者、テロへの加担者と見なされる。このように消耗させられ、嫌疑をかけられる。最も私たちが必要としている民主的な話し合いと社会的な和解の枠組みで政治が進められない限り、あらゆる問題を解決できないであろうし、現政権とその周囲がこれを理解しない限り、諸々の事件の中で散り散りにされてしまうであろう。問題の本質はこれである。
最後に先日の攻撃について少し書き留めておこう。犯人あるいは犯人たちが誰であり、意図がどうであろうと、新年前に設けられた敵意の構図は真摯に受け止める必要がある。私たち自身にこれほど苦しみが降りかかる一方、この国のイスラム主義者、保守派は、新年のお祝いを問題としている有様である。政治、価値、文化を創り出さないイスラム主義者は、巡りめぐってアタテュルクの銅像を排除することやサンタクロースを問題とするといった浅はかな怒りの感情を強い、状況を緊張させ、自分自身とは異なると思える考えや生活様式を標的にしている。繰り返えそう。犯人と意図が何であれ、先日の攻撃とその前の状況は、否応無しに互いに結びつく。 「まさにこれである、ある者が一つの絵を作ろうとしている」と言うのならば、人々が何をどのように祝うのかを自分自身で決めるのはおろか、英雄を自分で選べるようにせよ。環境の押しつけをなくしなさい。あなたの敵はあなたの望まない絵を描くことができるのか。
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翻訳者:新井慧
記事ID:41875