Mehmet Soysalコラムー独りぼっちの旅―アルメニア問題
2019年12月18日付 Hurriyet 紙
アメリカのいわゆる「アルメニア人の虐殺」という中傷による政治的復讐に応えて、アメリカの歴史における虐殺の数々を書き記すつもりだということを表明した…。
アメリカの歴史家であるジャスティン・マッカーシー教授は、『1915年:ヴァンでのアルメニア人反乱』というタイトルの書籍で事件の本当の姿を資料の数々とともに提示している…。
彼はこう言っている。
-ムスリムの市民の中で発生した最初の大虐殺は、戦争が始まった時期にロシア人たちがディル、バシュカレ、サライ地方を占拠したときに発生した。
-ディル、バシュカレ、サライで占領された各村々で女性たちへの集団的なレイプ、強奪、殺人事件が発生した。
-この各都市で発生したことは、そのほかの地方でも次々に発生する各事件の前兆であった。
―まずは役人、兵士、郡警察の人々が殺害された。
―これに強盗と略奪が続いた。
マッカーシー教授は以下のように続けている。
―ムスリムたちに対して、隠していた財産を貢物として渡たせば命は助けると約束したが、この約束は殆ど守られなかった。
-戦闘に加わることができる年齢にある男性たちは殺害された。
―女性たちはレイプされた。
-サライのムスリムたちはモスクに集められ、燃やされた。
-生存者たちによって提示された数字は十分ではないとはいえ、起こった惨状を示すには重要である。
『死と追放』というタイトルの本を受けて、彼と協力して私が制作したテレビ番組では、19世紀のバルカン半島、中東、アジアで何百万人ものムスリムが殺害され、追放されたことについて語り合った際に、教授はこう言った。
-アルメニア人虐殺があったという主張を私は認めない…。
-アルメニア人たちが殺害されたのは認めるが、それ以上に沢山のトルコ人とオスマン帝国人が殺害された…。
-このこともまた私の著作の数々において、資料を基にして証明した…。
-端的に言って、1915年は二つの民族にとって苦難の時期であった…。
マッカーシー教授は、ロシア帝国の拡大政策の歴史とバルカン半島で新しい民族群が歴史の舞台に登場したことが、伝統的に、オスマン帝国から分離独立したキリスト教徒の民族の視点から解説されていると強調し、以下のように語っている。
-『死と追放』は、この事態を、初めて帝国主義、ナショナリズム、民族の紛争の犠牲となったトルコ人や他のムスリムたちの視点から言及している。
-『死と追放』は、中東とバルカンの人々の歴史に対する我々の見方を、根底から違うものにして、そして今日も続いている紛争の数々をよりよく理解する事を可能とするパースペクティブを提供している。
このような見解の数々とその著作の数々のために、アメリカでは教授に関して査問が開始されて、アルメニア人ディアスポラは、教授に対する異常なキャンペーンを張った。
私の脳裏には1982年にムスリムとなった後にユダヤ人の虐殺は存在しなかったという見解を堅持したためにフランスで何年間にもわたって「存在を抹消され」たが、イスラム圏では非常に愛されて99歳で亡くなった有名なフランス人哲学者であるロジェ・ガロディ氏の著作が浮かんだ…。
その本の名前は『回想-この世紀の孤独な旅』だ…。
私たちは力を持つものがルールを定める非情な世界に生きている。
そして千年もの間私たちは孤独に歩み続けている…。
しかしながら、アメリカ合衆国は、独立を宣言した後、最初に国土拡張を実行するため1830年に『インディアン移住法』を制定し、全ての住民たちを自身の土地から追放した…。
歴史資料によれば7000万人のネイティブアメリカンたちを殺害して…。
これは、その虐殺のほんの始まりにすぎない…。
-続きは土曜日の記事で…。
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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:48280