ハンセン病についてのフォルーグ・ファッロフザードの映画は私たちに新型コロナウイルスについてどのようなことを示唆しているのか?(その2)

2020年04月09日付 Hamshahri 紙

(その1の続き)
フォルーグ・ファッロフザードが情熱的に詩を読むのと同じ姿勢がよりはっきりしてくる。「さあ、道なき荒野で歌う人の歌に耳を傾けよう/ため息をついて手を伸ばしている人はこう歌う。“ああ、なんてこと/私の魂はこの傷のせいで正気を失ってしまった”」ゴレスターンは映画の中で述べている。「ドキュメンタリー映画を製作した動機は、醜さを浮き彫りにし、患者の苦悩を減らすことである。」しかし、『あの家は黒い』はそれよりも複雑な視点で描かれている。カリフォルニア大学比較文学教授、ナスリーン・ラヒーミーエによると、ファッロフザードはベルナルド・ベルトリッチとの対談で自身の映画について述べている。彼女は、この映画の中でハンセン病患者たちの社会を、様々な困難の中で病気と貧困に囲まれている世界の一例もしくはモデルと見なしていた。ラヒーミーエは言う。「ハンセン病患者たちの社会での生活は、実のところ、人生についての隠喩である。」コロンビア大学イラン研究比較文学教授ハミード・ダバーシーと、カリフォルニア大学人類学映画学教授ロクサーナー・ヴァルズィーによると、この映画はイランの野蛮な歴史の縮図であり、当時の宗教体制と王制社会の抑圧的な政策への批判でもある。

『あの家は黒い』は、コロナウイルス感染という災難の中で、より広い意味を持つようになった。一方で、この状況下で自己隔離を始めた人々にとって共感を得るものとなりうるだろう。私たちにとって隔離の日々は一時的なものだが、この映画の患者たち、とくにより重篤な患者にとっては社会からの隔離・孤立・断絶は一生の現実である。彼らは隔離の日々の終息を待ち望めるような回復は期待できない。ファッロフザードは言う。「私は水のように流されていく/ずっと昔に死んでしまった人々ように、私のまつげの下には死の影がある」

『あの家は黒い』は、新型コロナウイルスが蔓延する今日のイランの状態の暗示とも見て取れる。国民は、一つの伝染性の病気に対する辛い措置の下にあり、生活費の増大が懸念の元となっている。おそらくこの映画の中で最も切ないシーンは、一人の生徒が「家」という単語を使った文を黒板に書くように言われたシーンだろう。彼は不自由な指で黒板に書く前に、こう思い浮かべたのだ。「あの家は黒い」


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翻訳者:EM
記事ID:48889