ギュレン派クーデターへの過程における12月17~25日事件
2020年12月19日付 Hurriyet 紙
7月15日クーデタに至る過程のうち最も重要な通過点の一つは、12月17日〜25日事件だった。
彼らが訴訟を通して行ったクーデタの企みが成功しないまま、彼らは最終的に、最後の手段でトルコ国軍内のギュレン派勢力を行動に移させた。私たちはそれを7月15日クーデタ未遂事件と呼んでいる。私は12月17日〜25日の本当の側面は書かれなかったと思うが、しかし7月15日クーデタを理解するためには12月17日〜25日を振り返らなければならない。今私が一つ一つ挙げていく、事件前後のこれらの介入はギュレン派のクーデタの鎖の輪の一つ一つだ。
◾️12月17日以前
(1)エルゲネコン捜査の過程でギュレン派は皆を恐怖させ震え上がらせ、作戦への力を得た。
(2)2010年の国民投票の結果、58%の賛成票を自分たちの貢献によるものとみなしたギュレン派は、政治的に重要な権力を手に入れた。
(3)2011年の選挙に入るとき、ギュレン派からの指令により100〜110名のギュレン派がAKP党員として国会議員候補になった。
◾️日付の会話履歴
(4)国会議員リストを準備する時期に、エルドアンとある副総長の間で以下のような会話が行われている。
エルドアン「君はギュレン運動をどのように評価している?」
副総長「私の知る限り、その構造は2段に分かれています。1つ目は基礎部分にとても誠実で奉仕する人々、2つ目はその上の諜報機関や警察、検察が占めている汚い構造です。」
エルドアン「君はフェトゥッラー師がどちらに属すると思う?」
副総長「彼のことはわかりません。」
エルドアン「フェトゥッラー師はその汚い構造のど真ん中に位置している。師はこの汚い構造のリーダー役を担っている。」
(5)エルドアンは2011年選挙でイルハン・イシュビレン氏とムハンメド・チェキン氏を候補に擁立した。しかし県の組織から情報を提供した者によって一部のギュレン派国会議員であったと伝えられた。デルスハーネ(予備校)議論の始まりに際して、彼らもギュレン派の命令によりAKPから離党した。
◾️ギュレン派のはじめの動き
ギュレン派の訴訟からエルドアンを失脚させる動きのはじめは、2012年2月7日に国家諜報機構(MİT)のハカン・フィダン事務次官が証言に召喚されたことだった。エルドアンの健康問題を理由に作戦に入る時間に、ギュレン派のサドゥレッティン・サルカヤ検事はMİTのハカン・フィダン事務次官に電話をかけて、「証言するために私のオフィスで待っている」と話した。フィダン事務次官が行けば拘束されたはずだった。エルドアンが遅れたため、まだ作戦へ入っていなかった。彼にかかってきた電話でハカン・フィダン事務次官に「証言しには行くな」と話した。目的はハカン・フィダン事務次官からエルドアンへたどりつくことだった。サドゥレッティン・サルカヤ検事は1日後に電話をかけられたが、その時にはペンシルバニアから出ていた。
◾️ゲズィ運動を支持した
ゲズィ事件は5月28・29・30日に環境問題事件として続いたが、ギュレン派がテントを燃やすことで政府に対する反発に転じた。トルコ中へ広まった運動は何日間にも及んで続いた。
◾️デルスハーネの決定で開戦を宣言した
エルドアン大統領は国家教育大臣に出した初めの指令は「デルスハーネを閉鎖しなさい」というものだった。しかしある種の成功には至れなかった。エルドアンはデルスハーネの閉鎖について決断し、ギュレン派の広報組織は戦争を宣言した。
◾️12月17〜25日のクーデタの企み
ギュレン派は7月15日クーデタの企みの前の最も重要な動きを12月17日〜25日に行った。ギュレン派が地方選挙前の3月以内に行おうと計画していた作戦をデルスハーネ議論の前に行うと伝えられた。ギュレン派は12月17日の朝にボタンを押した。長々と説明するつもりはない。では12月17日〜25日の目的とはなんだったのか?
12月17日〜25日の作戦のため準備された起訴状に、エルドアン首相について「R・タイイプ・エルドアン現首相」と書かれていた。
以下の資料:
ギュレン派のものが用意した起訴状にエルドアンについて「組織のリーダー、レジェプ・タイイプ・エルドアン」との肩書きで書かれていた。
以下の資料:
12月17日〜25日の目的は何だったのか?
それをギュレン派のジェラル・カラ検事は、ジュムフーリイェト紙のジャン・ドゥンダル記者による「1番はエルドアンだった」というルポルタージュで発表した。
(画像資料内文訳: 12月17日捜査のジェラル・カラ検事は手に入れた起訴状をジュムフーリイェト紙に伝えた。「1番はエルドアンだった」)
目的は、司法によりエルドアンを召喚することだった。レザ・ザッラブ訴訟でトルコに反する証言を行ったギュレン派のヒュセイン・コルクマズ警察官のパソコンを調べた捜査では、ギュレン派警察官が内部で行った通信で「我々がキャビネットをここへ集める」と書かれていたと判明した。
目的は「1番」と書かれたエルドアンの手首に手錠をかけることと、「キャビネットをここへ集める」と書いたように政府を転覆させることだった。12月16日から17日にかけての夜、イスタンブル警察の廊下は「私は彼の手首に手錠をかける」と挑戦したギュレン派の警察長官の声が響いていた。
◾️エルドアンはない
ゼケリヤ・オズ氏は12月17日〜25日のファイルについて活動した検事に「私たちは君に好感を持っている。君はいい検事だ。しかしレジェプ・タイイプ・エルドアンがトルコにいるべき場所はない。それを考慮しなさい」と話した。
◾️初めて離党したのはハカン・シュキュル氏だった
2011年の選挙で100を超えるギュレン派がAKP党員として国会議員になりたくない理由はデルスハーネの過程においてわかった。ギュレン派の国会議員たちはAKPを離党した。初めて離党したのはデルスハーネについての政策に反対しているとわかっている元サッカー選手のハカン・シュキュル氏だった。議会制であるためギュレン派の国会議員70〜75人を国会に送り込み、デルスハーネの過程で国会議員70〜75名をAKPから離党させて、政府転覆を目的としているとこの時わかった。しかしエルドアンは以前からこれを見越して、国会議員リスト上で対策をとっていたために「政治クーデタの企み」は失敗に終わった。
◾️「ちょっと待って」事件とともに始まった
エルドアン首相と大臣たちの電話が盗聴されたと判明した後、もう一つの事実が確定された。盗聴について立ち戻ったことで、ギュレン派はエルドアンと大臣たちへの盗聴を2009年に始めたと判明したのだ。
なぜ2009年だったのか?エルドアン首相が2009年1月29日にダヴォスでイスラエルのシモン・ペレス大統領に「ちょっと待って」と発言した後に、エルドアンに死刑宣告をしたユダヤ人移民は入札でペンシルバニアで発展したギュレン派を採用した。「ちょっと待って」事件を受けて、「トルコはわからないがAKPは終わりだ」との言葉が何であるかをこれらの事件が公になり私たちは知った。ギュレン派はエルドアンを失脚させるため、その頃に頻繁に映像の証拠を集めはじめたと明らかになった。
◾️首相自宅に虫が住んでいる
首相の自宅や首相官邸で「虫」が発見されたことにより糸口が見つかったが、十分に対処できなかった。2011年12月28日に首相のスバイェブレリの自宅、12月30日に首相官邸で行われた捜査で盗聴器が発見された。しかし十分には進展しなかった。
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翻訳者:伊藤梓子
記事ID:50341