トルコ文学:オルハン・パムク『ペストの夜』で訴えられる―ファシズムのナショナリズムそして凡庸な卑劣さ
2021年11月10日付 その他 - T24 紙
オルハン・パムクのことが好きであろうとなかろうと、その書いたものを気に入ろうが、気に入るまいが、その考えを間違いだということもあるだろう。しかしながら、彼のことを最後まで支援し続けることは、この国で次第にその姿を消している思想の自由そして民主主義を守ることなのである。
機会を見つけては、オルハン・パムクにたてつくこと、自身に対して知識人という形容をする左派右派のファシズム傾向のある国家主義者たち、凡庸さを乗り超えることのできない嫉妬深い心理の犠牲に、服を着ていない強欲さの、誰かを消耗させることにより満足を得る悪辣な「小さい」人間たちの国民的スポーツという状況になっているのだ。
2006年にノーベル文学賞を獲得した知識人として、作家、芸術家として知られている80人近い人々がチチェキ・バーに集まり、パムクに事あるごとに殴り掛かり、獲得した賞をある「様々な裏切り行為の対価」であるとした通達を出したということ、この通達が映画愛好者協会のローカル版で行われた記者会見で作家のデミルタシュ・ジェイフンによって読み上げられたことを私は恥ずかしさとともに思い起こす。
通達においてそのサインのある何人かは、とりわけ亡くなってしまった愛しいフュスン・アクタル氏は、自身にもそして娘のゼイネプ・アルトゥク氏にもこのような通達は届かなかったとすぐに明らかにした。またそのうちの何人かは自発的に参加をしたということ、また通達の文面を読むことなくサインをしたと述べた。ある「裏切り」に対して、これはかなり名誉な任務(!)であると述べる何人かの名前を思い起こしている。デミルタシュ・ジェイフン、ニハト・ベフラム、ニハト・ゲンチ、ハリト・レフィ、ヒュセイン・ハイダル、ケマル・オゼル、ユクセル・パザルカヤ、ドーウ・ペリンチェキ、アリフ・ケスキネル、ヤシャル・ミラチュ、オネル・ヤージュ、ウミト・ジレリ、アフメト・ユルドゥズ、トゥンジェル・ジュジェノール氏などだ。またウルチ・ギュルカン氏もまたノーベル賞を、『頭脳の背信行為』によって獲得したとする侮辱的な言葉をもだ。
そしてチチェキ・バーで、この通達を思い起こすときに少し別の場所で、タクシムにおいて自身を左翼/社会主義者の伝統に結び付けるある政党の手に置いて、油のついたロープでデモをおこなったアクティビストたちのこともだ。
■ナショナリストのタブーに触れることの対価
この層のオルハン・パムクに対しての憎しみそして暴行の基盤にはとりわけアルメニア人の問題がクルド人問題のような民族的なナショナリスト/ナショナリストのタブーに触れること、また時折、公的な歴史のケマリストバージョン以外へともたらされることがあったのだ。しかしながら、これほどであったとしても、ある層の政府の知識人が(政府において、政権と結びついている知識人が一体どれほど本当の知識人といえるのかどうか、これはまた別の問題だ)とにかく乗り越えることが出来なかった、意識下に置かれてしまった嫉妬があったのだ。あなたはこの国の限界を超えようとしているのだ!ノーベル賞!そのほかの類のことについて言及をしてみるとすれば2000年代の初めにはパムクは、トルコの政治的そして文化世界において何頭身か大きな存在であった。彼は、小さな人々に対しての平凡さ、小さな世界において搾り上げられて取り残されてしまったということを思い起こさせていた。
2006年にノーベル賞を獲得した時期の大統領であるアフメト・ネジュデト・セゼル氏は、作家を褒めたたえることはしなかった。2019年には当時の大統領であるレジェプ・タイイプ・エルドアンは、パムクに対しての言及で「トルコからテロリストに賞を与えた」と語っていた。T24で、2019年12月12日に書いた記事のタイトルは『オルハン・パムクがエルドアンとナショナリストをどのように引き合わせたのか』だった。
■『ペストの夜』はなぜ灰を再燃させたのか?
小説『ペストの夜』が初めて出たときに、とりわけケマリストのナショナリストの人々から全く驚くべきことではない反応がやってきた、そしてそのあとでその問題は忘れさられてしまった。結局のところ問題であったのは一冊の小説だったのだ、そしてまた司法的な判断を行う大部分の人々は書籍をよまなかったというわけなのだ。小説の文学的な価値、歴史的な繋がり、主要な考え、そのつくり(つまりは、私の考えではつくりが弱く、長くそして不必要なディテールがあり、物語を辿るのを困難にさせる文章なのである『ペストの夜』は)この人たちの関心を引くことが全くなかったのだ。文学とは彼らにとってどんな意味があるのか!目的は、パムクの粗探しをすることであり、そのようにして自分たちが「最も英雄的なナショナリストの防衛天使たち」であるということを示すこと、そのように満足感を得ることだ。
今、私が考えているのは、もしもイズミル弁護士協会に属している弁護士(彼の名前を特別にここで引き出しはしない、なぜならば彼が望んでいることこそこれだということが分かるからだ)書籍では、「アタテュルク」に対してまた国旗を侮辱しながら、国民の紐帯と敵対心をあおった」というによって罪状が出されたのだ。パムクは証言をして、書状に対しては不起訴となった。今は同じ人物が、その不起訴の決定をふふくとして、裁判が開かれてパムクが裁かれることを望んでいる。
私は興味を持ち訴状を見てみたが、その男には奇妙な政治的な過去があるようだ。AKPからMHPへ、善良党からそこから2019年の地方選挙においてDPからイズミル広域市長
の候補に戻り活動をしていた。またエルゲネコン党を結成した。彼が投げたあるツイートにおいては、「裏切りものの子供たちの泉のように流れるであろう血とともに、聖なる金曜に降臨を求めながら、よき金曜日となることを願います」と言っているのだ。つまりは、トルコにおける現在持っている政治的な雰囲気に対して、ファシズムの民族的なナショナリズムに適応した精神を有しているのだ。それもとりわけある小説から、アタテュルクに対して、また国旗に対しての侮辱であるというほどに、警戒している。最近においてアタテュルクそして国旗のようなシンボルは、ただナショナリストの領域だけでなく、国民連合の領域においても力を持っているということが分かっている。
その傍らに、「よい金曜日を」を、そして「裏切者の子供たち」をつけ加えただろうか。
政治的な将来はもはやあなたたちのものというわけだ。
■オルハン・パムクではなく、思想の自由そしてデモクラシーを守るために・・・
『ペストの夜』は一つの小説だ。作家たちはその小説作品においては歴史的な人物たちを批判すること、そのシンボルについて思考をすること/思考させること、歴史的な事件をフィクションかする承認、権利、自由を持っているのである。全体主義の専制においてのみ、独裁者性において、この権利そして自由を制限して、
不起訴となったこの弾劾が再び開かれることになれば、私はこうしたらと勧めるだろう。作家たち、そして芸術家たち、自身を知識人という全ての人たちはとても広い「罪へ加担」活動に加わっているのだ。小説において追及の問題である
オルハン・パムクのことが好きであろうと好きでなかろうが、その書いたもののことを気に入ろうが、気に入るまいが、また彼の考えの間違いを見出すこともできるだろうし、彼が言ったことを肯定できないかもしれない。しかしながら彼のことを支援し続けることは、この国において次第に失われている思想の自由と民主主義を守ることなのである。このことに成功しなければ、その端にまで来てしまった泉に頭から転がり落ちてしまうだろう。
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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:53013