イラン映画:イラン人新鋭監督アリ・アスガリ新作『明日まで』公開ー母親になることではない、母親で「あり続けること」

2022年04月15日付 その他 紙

アリ・アスガリ監督は、「明日まで」において倫理的な価値を有していて、類似しているものをほとんど見たことのない「スリラー」を提示している。非常にシンプルな物語を、社会的な観点から敏感な時代における国に位置づけながら、しかし決して図解的な語りに陥ることなく、インパクトがあり、心を奪うようであり、そしてまた非常にしっかりとしているある事件を編み込んでいる映画へと転換している。

第41回イスタンブル映画祭の一環で上映された『明日まで』は、イラン人映画監督であるアリ・アスガリ氏の二作目となる長編映画作品である。監督は、比較的に慎ましいといえる映画キャリアの持ち主であるが、テーマをしっかりと持ち、そのシナリオは耐久性のあるバックボーンに支えられ、キャラクターは意識的な形で作られた印象を与える。映画において、たくさんの事例に出会った「スリラー」のジャンルに入れ込んだアスガーリ氏は、同時に我が国における様々な制限と(とりわけ女性たちに対しての)、社会的な障壁について、細やかな形で「遊びながら」そのシナリオに対しては信じられないような活動力、確かな物語の曲線、そしてまた本当に匂い立つようなドラマティックな雰囲気をもたらしている。

疑いの余地なく、イランの映画は、長年世界の映画業界においても重要な位置を占めている。私たちの世代に、「遭遇した」名前を上げて見れば、経験豊富な映画監督であるアッバス・キアロスターミ、ジャフェル・パナヒそしてアスガー・ファルファディといった名前を私たちは上げることが出来る。とりわけファルファディ氏は、国外においてもよく知られていて、(また正当なこととして)大きなフェイバリットを集めていて、自身のジャンルにおいて非常に成功を集めていて、更には傑作とみなすことの出来る映画を世に出した監督だ。その物語において、奉仕、倫理性、美徳、そしてまた意識といった非常に深いテーマを扱っているファルファディ氏は、これを行うさいにもまた、やってきた場所(つまりは国を)忘れることなく、その可能性を社会的な諸条件においてもまた、そのシナリオに対して「食べさせて」そしてまたこのようにして普遍的な次元における諸問題に対して、地域的な窓から見ることをもたらしている人物の一人である。

その年齢としても、また用いているキャラクターたちとしてもファルファディよりも更に「若い」アスガーリ氏はそのコンテンツの観点から言って、少し後方の位置にあると言ってもその映画に据えられた軽やかなユーモアのディテール、そしてまた様々な会話に対しても変わった風が吹いている。例えば、実際に「モダンな」母親であるフェレシュテフ氏の最も近しい友人であるアテフェフ氏が、少しパンクなスタイルであることは、同様にいかなる形でも父親としての責務を望まず、そして認めることがないヤセル氏と共に合計4人で(アリ、フェレシュテフそして赤ちゃん、アテフェフ氏そしてその手にしている魚たち!)が一台の車を通じて助けを求めるために向かったシークエンスは、本当に微笑みたくなるような瞬間である・・・つまりは、私たちの目の前にある数多くの観点から、異なっていてそしてまたモダンとみなすことができるスリラーなのだ。

「明日まで」の物語を見てみよう。フェレシュテフは、たった一人で赤ちゃんを育てており、時間は彼女の面倒を見ることに、そしてまた自身の教育にそして仕事に咲いている若い女性だ。フェレシュテフの赤ちゃんについて知らない母親そして父親は、ある日、

つまりは全てのこの繊細な秩序を壊してしまうサプライズの訪問は、シナリオにおいては本当の心臓部となる。実際のところ、暮らしている場所のそして時間の「進みにおいて」あるこの若い女性は、まるで小さなアパートを離れて、自身をテヘランの通りに見出すと、どれほど無力な状況に置かれてしまっているのかということに気が付く。都市においては、そこまで知人がいないフェレシュテフ氏は、自身のように小さなアパートメントに「閉じ込められて」しまった隣人たちに、また緊急の「B」プランとして信頼をしていた人からも支援を得られない。まるで、助けのために「乗り越えた」全ての扉が、様々な理由で彼女の目の前で一つ一つ閉じてしまうと、まるで、深い愛情と結びつけられていた赤ちゃんが、初めて彼女にとって「重荷」であるかのように見えてしまうのだ。

■中と外の妨害


初見では、かなりスムーズでありそしてまた自然な形で流れていて、更には普通の条件においては、必要以上に「一方通行で」向かっているかのようなこの物語は、メインキャラクターたちの目の前にでる外的そしてまた内的な妨害とともに、また別の次元を獲得している。またほかの言い方では、フェレシュテフ氏が、「たった一晩の」解決方法を見出すためにその目の前をノックする、世界のありとあらゆる場所で出会う様々な不運は、彼が暮らしている国に固有のものであり、もしも他の国で起きたことであったのならば、簡単に解決出来る障害であるというのが問題である・・・実際のところフェレシュテフ氏の子供を緊急の状況下で、寄託してしまうことを考えた女性が拘束されたこと、もしくは、また子供を一晩預けることを考えた病院で、医長が、目の前で彼女と一緒にいることを望まない、といった状況は、イランだけで特別にみられることではないかもしれないが、このそばで起こった数々の事件そしてキャラクターたちもまた、遠回りな形で国における様々な可能性が制限されることへ、そしてまたこの中の緊張感のある空気感へと結びつけている。これ以外にも、例えば、一人の女性が連れがいないまま、一人で、あるホテルに滞在することがなきないといった、イランに特有の厳しい状況もまた、複雑な状況をもたらしている。


しかしながらこれら全てのことに関わらずこの映画ではまさにファルフアディ氏がその映画作品においてそうしたように、イランにおいてはとりわけ女性であり続けるのは難しい。そしてまた、問題のある様々な諸条件を「外から」批判を行う(オリエンタリスト)の眼差しが立ち入ることがないというのを感じている。物語を、イランの諸条件において、イラン人のキャラクターたちとともに、そしてまた、彼らの価値判断によって私たちは追いかける。そしてシナリオは、自身の中にあっては、一貫している枠組みの中で留まっている。この理由は、疑いなく、言及がなされたように監督がメインキャラクターたちを最初に据えた場所において、そしてまた「滞在できないホテル」のような妨害は、私たちの目の前にあまり置かれ続けることなく提示している。

■母親であることの本当の責任

『明日にまで』でおいて、恐らく扱われる全てのキャラクターたちそしてまた題材の前にくる一つのテーマが存在している。「母親」となることである。映画において、フェレシュテフ氏が赤ちゃんと作り上げる愛情の力強さ、そして揺れ動くことのない様々なテーマによって作り上げられたかのように見受けられる。しかしながら、疑いがないに等しいこの「内的な繋がり」は、そのほかの人たちによって、判断がなされて、そしてまた悪用されてしまう。主要人物たちもまた、心理的に「様々な亀裂」が始まりだすのだ。勿論のこと、イランのような国にあって、シングルマザーが赤ちゃんを隠すというのは、周囲からの圧力が原因であるかもしれない、しかしながらまるでフェレシュテフ氏が、母親として社会的な責任を得るという問題においてもまた、躊躇いはある。一人の赤ちゃんを産むこと、そしてまたその子の面倒を見ること、子供を持つということは、最も困難なプロセスであるかのように思われたとしても、これに対して否定的にみている社会が立ちふさがることは、そのほかの責任を必要としてしまうのだ。

数多くの重要なイラン映画において出会ったように、カメラは主要登場人物から離れることがない。テヘランの通りで、ある場所からまたある場所へと振り回されているこの二人の女性を決して孤独に放っておくことがないのだ。とりわけフェレシュテフの顔を目にする長いシークエンスは、キャラクターたちの全てのジレンマを、疑いを、ためらいを私たちに感じさせる。

結果として映画監督アリ・アスガリ氏は、私たちに対して倫理的な価値をもたらして、その類似しているものを殆ど見たことのない「スリラー」を提示している。非常にシンプルに感じられる物語を、また社会的観点から敏感な時期にある国において、位置づけをおこないながら、しかしながら決して図解的な物語には陥ることのない、インパクトのあり、心を奪いそしてしっかりとしていえる事件が織りなす様を擁している映画へと生まれ変わらせている。もう私たちは理解していることであるが「明日までに」母親であるのは、本当に難しい!


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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:53378