アランヤ城で大発見

2022年10月17日付 Cumhuriyet 紙

アランヤ城クズルクレ前の海岸で、今年の厳しい冬が作り出した波が興味深い発見に導いた。発掘調査団長オスマン・エラブシャル教授は、「今年の冬は厳しかった。波が幸運なデータを明らかにした。クズルクレの前にある海藻と砂の下にあるローマ時代の造船所または船の係留場所の存在が明らかになった。」と述べた。

アンタルヤ県アランヤ郡で海抜250mほどの高さの半島上にあり、街のシンボルであり、歴史的な建造物の一つである6.5kmにおよぶ城壁、83の塔と140の櫓、セルジューク朝時代の建造物であるクズルクレ、砲兵工廠の櫓、造船所を筆頭に、ヘレニズム時代からローマ、ビザンツ、セルジューク、オスマン文明までを抱えるアランヤ城で、とても重要な2つの歴史的発見があった。

■発掘の季節は終わろうとしている

アランヤ城発掘調査団長であり、アクデニズ大学文学部オスマン・エラヴシャル教授は、2022年の発掘調査が終わろうとしていると述べて、今年は主に商業施設、海岸線から港側、短期間であるが内城も調査をしたと述べた。この調査で、以前にオスマン朝時代のものと年代比定され、1世紀後に発生した地震で破壊された商業施設の元々の計画の概要に関するデータを入手したと述べ、「修復作業の準備はできた。」と述べた。

■海岸で興味深い発見

海岸で「とても興味深い」発見があったと述べたエラヴシャル教授は、「アランヤ港は、セルジューク朝期の特徴で際立っており、さらに、セルジューク朝期のもので、現在まで伝わる2つの造船所のうちの一つはここにある。アラーウッディーン・カイクバード時代の1231年に建造された造船所と海側で港を警備した2つの塔も現存している。この塔のうち一つはクズルクレ(赤い塔)であり、もう一つは砲兵工廠の櫓として知られている。」と述べた。

同教授は、アランヤの歴史を見た時に、特にローマ帝国時代に海賊に対する戦いの後、ローマの前線駐屯地であったのがわかっていると説明し、「さらに、歴史上でいうと中世にアランヤを重要とした要素は、特にアランヤの周辺に生育する杉の木である。杉の木は、造船にとって極めて重要かつ必要である。思うに、アラーウッディーン・カイクバードはここに大きな素晴らしい造船所を建設させた、造船のための適切な材料があるということで。」と述べた。

■海藻と砂の下から出た

教授は、適切な原料である杉の木が造船所と関わる状態がローマ時代でも同様であったに違いないが、今日まで行われた調査では全く痕跡に出会わなかったと述べ、発見を次のように述べた。「今年の冬は厳しかった。波が幸運なデータを明らかにした。クズルクレの前で最近まで完全に海藻と砂の下にあった造船所または船の係留場所の存在が明らかになった。」

■水位が上がると水面下

エラヴシャル教授は、調査が発掘調査団のアンカラ大学海底文化遺跡保存学科のハカン・オニズ教授が団長を務めるチームによって行われているとし、「もちろんここで重要なデータは、今日水面下にある造船所または小さな船を作る場所であるが、大きさと規模の点でセルジューク朝時代に属するアランヤ造船所とほとんど同規模である。つまり、中世に地中海の水位が上昇し、この水位の上昇に関連してローマ時代の造船所が水面化となった。建物がある場所で、この先調査を行い、規模と建築概要を特定したい。この点から、重要な発見になるだろうと考えている。」と話した。

■二、三メートルの深さ

同教授は、水面下にあるローマ時代の造船所が水面下2−3メートルの傾斜地にあるとし、ローマ期の出来事を次のように語った。

「ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスは海賊に向け遠征を行い、アランヤの前で打ち破った。ローマ史からわかることは、海賊は城に退き、その後ローマ軍は城を陥れた。この時以降、およそ一世紀の終わり頃から二世紀以降にローマは、アランヤとその周辺部を前線駐屯地のように用いました、この地域の海賊の勢力を挫くために。したがって、その時期[のものと考えられる]今日水面下にある造船所あるいは船の係留場所はおよそ水面下2−3メートルくらいの傾斜地にあるのです。つまり[現在の]岸から海から10メートルほどさらに先にある必要があるのです。このことは、地中海で水面の上昇があったのを示しています。こうしたことを他の場所でも見ています。例えば、カシュ、デムレ、他の場所でもあるのです。なので、中世に至り、水面の上昇があって、この船の係留場所は水面下となり、港はさらに内側にあったので、防衛施設はそれに応じて形作られたようです。」

■クズルクレ前で第二の発見

同教授は、今年のもう一つの発見が、そもそも今日まで明らかなことが再発見されたことだと述べた。アランヤが1221年にセルジューク朝に征服されたのち、君主であるカイクバードが再建作業を開始したとし、次のように述べた。

「城壁が修復され、新たな部分も建造されました。最も重要な作業は港の拡張でした。港を防衛するために、クズクレと研究上言われている八角形の建造物と他方で「砲兵工廠の櫓」として知られる城砦型の大きな塔が建設されました。ただこの二つの塔が作られる前に、すでに港があり、この港を守るシステムがあったのがわかっています。これが何であるのかが、調査の結果、判明したのです。」

■十字軍のカポニエール

エラヴシャル教授は、クズクレの前面に海に向かった土の回廊があるとし、「この回廊には海の両側を望める銃眼があります。この銃眼から、これが元来中世の軍事建築上の、特に十字軍の城塞やヨーロッパの城塞で存在が知られている、残念ながらこれに当たるトルコ語の術語がないのですが、『カポニエール』と位置付けられる建築物であるのが判明しました。当該建造物は、中世の城塞では二階建てであるのがわかっていますが、初期の事例であるに違いありません。つまり、初期の例、アランヤ城塞では一階建てで建てられました。この点はアランヤ城壁の特徴的な面の一つであります。」と語った。

■アナトリアで唯一の例

同教授は、こうした建造物が今日のアナトリアにある他の城塞で類似するものを目にできないと指摘し、次のように語った。「アナトリアにとって特異な、唯一の例です。今日のアランヤ城塞の城壁上にあります。アランヤ城塞はユネスコの世界遺産の候補である居住場所、歴史的な半島に当たります。この点で独自性に目が向けられます。アランヤには多くの独自性がありますが、その一つはこの防衛建築物となりましょう。特に当該建造物が希少なものであるので、この先ユネスコの世界文化遺産の中に含まれることになろう、と考えています。」


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翻訳者:新井慧
記事ID:54265