テヘランの通りで女性が洗い物をする光景があった頃

2023年03月09日付 Hamshahri 紙

 女性たちがテヘランの通りの用水路のへりに座し、自分や家族の服を洗っていた頃から、まだそれほどの時は経過していない。古のテヘランの住人が見慣れていた、イラン暦1350年代(西暦1971年3月~1981年3月)頃に広く見られた光景だ。

【ハムシャフリー電子版−ナスィーベ・サッジャーディー】用水路での洗濯は、古い時代、つまりガージャール朝からパフラヴィー朝にかけての時代にありふれたものだった。当時、テヘランの貧困層が住む地区では、ほとんどの家に水をためておく適切なスペースがなく、そのために女性たちが汚れた服や食器を水路や小川で洗っていたのだ。同時期、名士貴顕たちは自邸の中庭に服を洗うためのスペースを持ち始めていたが、そこには人工池と水が出入りするための水路が設けられていた。イラン太陽暦1330年代(西暦1951年3月~1961年3月)以降、徐々にフェシャーリー、つまり水汲みポンプ(一般の街路におかれた水場)が設置され、衛生的な水が容易に入手できるようになったが、その数は少なく、フェシャーリーでの洗濯は輪番制だった。

 バーザール、オウドラージャーン、ダルヴァーゼガール、サンゲラジなどテヘランの中心地で、古くから発展していた地区というのが、まず水汲みポンプが設置された地域であり、その後少しずつ、水汲みポンプの数はテヘラン市全域で増えていった。ジャアファル・シャフリーはその著書『〔イラン暦〕13世紀〔西暦1822年~1921年〕におけるテヘラン社会の歴史』で、この洗い物という家事の大変さについて次のように記している。
「女性たちはしばしば、寒いなかしゃがんだり、ポンプを押したりなければいけなかったことの影響で、風邪をひいたり、腎臓の疾患やその他類似の病気に罹っていた。女性たち、とくに貧困層出身の女性たちはその多くがこのような病気になっており、治療も受けられない状況だった。なぜなら医者の診察を受けられる経済的余裕があれば、洗濯をしなければならない人にはなっていなかったからである」

 時の経過とともに、一般家庭にも上水道が引かれるようになり、人々の状況は改善された。女性の洗い物仕事が、街路から家の中に移ったのだ。コフネシュール、ホドカール、サトリーなどと呼ばれた洗濯機が登場し、〔イラン暦〕1349年(西暦1970年~1971年)、各メーカーの間でこれらの機械を人々に購入を促す熾烈なキャンペーンが開始され、その後永遠に、女性が洗濯という苦痛から解放されたのだ。


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翻訳者:MJ
記事ID:55452