旅行家エブリヤ・チェレビーを追って81都市を回る旅

2024年05月26日付 Milliyet 紙

自身が見た夢を追いかけて旅を始めて、その旅を51年間で終えたエヴリヤ・チェレビの『旅行記』は、今やセイマン・ボズアスラン氏の手の中にある。

よき旅行記の読者であるセイマンは、81の都市にあるエヴリヤ・チェレビ の記述の後を追いかけたのだった。


イスタンブル生まれのセイマン・ボズアスラン氏(37 )は、熱心な旅行記の読者である。

数多くの旅行記を読み耽ったセイマン・ボズアスラン氏もまた、その包括的な語りによっていつの時代のその名が取り沙汰される、トルコ、そして世界史上最大の旅行家であり、最長の旅行記を執筆したエヴリヤ・チェレビ氏のファンとなったのだ。

「その時代の条件下で、これほどの描写、詳しい説明を一体どのように行ったのだろうか、と私は何度も考えました。」と語るセイマン・ボズアスラン氏は、大学や、企業でおこなった『旅行記』のスピーチにおいても、今日に訪れた様々な場所を古の時代における、旅人の目からも物語ろうとしているのだ。そのスピーチにおける参加者の反応と、このテーマにおいて実際に気がついたことが、あまり多くないことに気がついたセイマン氏は、まずはじめにイスタンブルをパイロット都市とすることに決めたのだった。エヴリヤ・チェレビの『旅行記』というタイトルの作品における様々な都市を、イスタンブルで探し歩き360以上の場所を突き止めると『エヴリヤ・チェレビが、もし写真を取ることができたのだったら、これほどになっただろう。」と述べたセイマン氏は、プロジェクトを実現することができると考えたのちに、81都市のエヴリヤ・チェレビの足跡を辿る旅に出たのだ。

■「今日でも、いくつかの場所におけるディテールに辿りつくことは可能」

セイマン氏は、準備段階においてはまずは10巻にのぼる旅行記を読み込んだこと、 そしてとりわけ第一巻と9巻において、今日のトルコの地図における様々な 詳細が記載をされていると語った。これらの場所について、まるでホワイトカラー層のように、エクセル表をつくりながら、相関表リストにしていったセイマン氏は、その後にどの都市でどの建築、もしくは自然の豊かさが未だに見受けられるのかということを一つひとつ調べ上げていった。一定期間ののちに、調査は身を結ぶことにない、トルコの 地図における旅行記の記述におけるロケーションがはっきりしたのだった。

その作業のあとに必要であったのは、もはや旅に出ることだけだった。

「しかしながらエヴリヤ・チェレビ氏のオスマン語の文書を今日の トルコ語に翻訳を行ったイェディテペ出版社そしてセイト・アリ・ カフラマ氏ンに対して、とりわけ感謝を伝えたいと思います。」と述べる セイマン・ボズアスラン氏は、「この翻訳がもしなければ、私はプロジェクトの 準備をすることはできなかったでしょう。またいくつかの場所について 現代の場所でのアクセスを可能としたグーグル・マップで、 エヴリヤ・チェレビの地図を作り上げたムスタファ・バシャラン氏に対してもまた 深い感謝をいたします。この地図もまた、私が暮らしたいくつかの場所についての 素晴らしい参照元になったのです。」と語った。


「この仕事では、更に前にも何度もその横を通り過ぎていた建築について、注意深く調査を行うチャンスを与えてくれました。」 と述べるセイマン・ボズアスラン氏は、「彼が説明をしている場所の大部分は 未だに訪れることができると気が付きました。しかもいくつかの場所において 言及をされているディテールについては、今日も見ることができるんです。 例えば、一つのモスクに入り込んだとき、すでにそのモスクは酷い形で
改修が行われていた、もしくは、その特性を今も保ち続けていると 解釈をすることができます。もしくは、カラキョイの、アラプ・ジャーミーの建築をダマスカス・エメヴィ・ジャーミーと比較しているのをダマスカスを訪れることなく、『旅行記』を読んだ後に、アラブジャーミー の庭で、グーグルマップを用いてエメヴィ・ジャーミーと書き込んで、比較をすることができたのです。」という情報をシェアした。



■「トルコで、チェス文化がなぜ失われてしまったのか、わからない」
『旅行記』において私が最も影響を受けた場所そして出来事についての説明をおこなっているセイマン・ボズアスラン氏は、「トルコにおいてチェス文化が、どこで失われてしまったのかは分かりません。しかしながらエヴリヤ・チェレビは多くの都市で、チェスをプレイしている人々についての言及をしています。」と述べて以下のように付け加えた。



「これは素晴らしいことです。今日に、オケイもしくは、トランプを楽しんでいたコーヒーハウスにおいて、時折バックギャモンがプレイされているんです。それ以外にも再現がたくさん行われています。こんにち、彼が案内してくれた場所でおこったことは、生活を素晴らしく物語っているんです。2024年に訪れて1600年代について、想像をするのは最高の気分にしてくれます。またイスタンブルにおける生活と職人の集団について読み込んだときもとても驚きました。」と述べた。


■『村のコーヒーハウスでもとてもよく出迎えてくれた」

訪れた多くの場所で、もしくはコーヒーハウスにおいては人々が彼のことをとてもよく出迎えてくれたということ、また彼らもまた仕事についてよく関心を持ってくれていたことについて言及をしたセイマン氏は、

「とても嬉しいことでした。私が自分の車でおこなった旅では、大抵の場合、 休憩は村のコーヒーハウスでとっていました。最初の質問は、普通、「あなたは新聞記者ですか?」というものでした。 「いや、旅人なんです。エヴリヤ・チェレビの記述の跡を追いかけているんです。」 と伝えると、多くの質問をもってきます。 私達が会話をすると、実際に村を旅したエヴリヤ・チェレビ氏の記述について気がついていない、ということが理解できました。 つまりは、実際におこった村の過去の出来事について、特に知らないのです。そのときに 「正しい道にいるぞ、セイマン、このまま続けよう!」という表現が記されている。



エヴリヤ・チェレビが物語ったことには、かなり大袈裟な部分も含まれている と述べたセイマン氏は、「しかしながら具体的なことについては、実際に 足を踏み入れて確かめた情報については、私にしてみれば「少なくともマルコ ・ポーロ的な大げさなことは言っていません。」

「マルコポーロは、もっと大げさなことを書いています」という解釈を伝えて、このことばを以下のように結論づけた。
エブリヤ・チェレビ的な大袈裟さというのは、私にしてみればもっと 論理的なものだと感じられます。たとえば・・・ガラタ塔はとっても高い 橋でしょう?エブリヤ・チェレビは、そのことについて「天空にまで届く
建築です。」と言っているんです。 この程度の大仰さなんです。彼が説明をしている社会生活、人々が何をしているのか、を食べているのか、といったことについての詳細が、私にはもっと重要なことのように思われます。


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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:57979