シヴァス事件テーマの催し、ベイオールで開催へ
2024年06月29日付 Medyescope 紙
1993年7月2日に33人が焼き殺されたシヴァス虐殺事件から31年目となり、マドゥマク虐殺(シヴァス虐殺)事件記憶センターとベイオール当局の協力で「記憶」展が開催された。セナ・シャト氏が描いたイラストや伝記からなるドキュメンタリーを展示し、またエイレム・シェン監督によるマドゥマク虐殺事件バーチャルミュージアムドキュメンタリー「忘れられない人々」の放映が行われた。展示会の前に、参加者によって大通りの路上にカーネーションが置かれ、シヴァスで亡くなった人々が追悼された。
「記憶」展の開会式に、ベイオール区のイナン・ギュネイ区長、ヨーロッパ・アレヴィ統一連合(AABK)のネヴィン・カミラーオール共同代表、虐殺事件から生還した民謡詩人のアリ・チャアンさん、マドゥマク虐殺事件記憶センターのコーディネーター兼バーチャルミュージアム監督のエイレム・シェンさん、虐殺で命を落としたハンダン・メティンさんの姉シェフリバン・メティンさん、アレヴィ組合の運営陣らが参加した。
■「私たちは世界で類を見ないかたちで虐殺を経験した」
アリ・チャアンさんはシヴァス虐殺が起きた当時、ピール・スルタン・アブダル文化組合の運営に携わり、民謡詩を歌ってセマーを舞うためにアンカラからシヴァスへバスで来たと話し、「私たちの手にはサズの他には何もなく、武器も石も持っていなかった。私たちは世界で類を見ないかたちで、生で虐殺を経験した。私はそこで殺害された人々のすべてに関係をもつ一人だった。長い間、私はこの虐殺から生き延びたと言うことができなかった。同胞が殺され、私がそこから生還したことを、受け止めることができなかった。そして時々、辛い時を過ごすあまり『私もホテルに残っていれば』と思うほどだった」と述べた。
虐殺で命を失ったハンダン・メティンさんの姉シェフリバン・メティンさんは事件を振り返った。メティンさんは妹は才能ある、芸術好きな若者だったと話し、「私たちがハンダン・メティンをシヴァスに送った時、彼女は中東技術大学(ODTÜ)で学んでいた。20歳だった。30年が経ったと言われても私にとっては何にもならない。ハンダンは私にとって20歳のままだ。1993年以降の年月、年齢を真に数えることはできなかった。私にとって20歳のハンダンと他の人々は現代のピール・スルタン(訳注:歴史的なアレヴィー派の詩人)だ」と話した。
■二度とこの苦しみを味わわないように…
開会式典で話したベイオール区のイナン・ギュネイ区長は区で初めてシヴァス虐殺事件を追悼すると強調し、「私たちは息をする限り、マドゥマクの殺人者たちは私たちの良心や、良心のある国民の心の中で非難される事件だ。」と述べた。
イナン・ギュネイ区長のスピーチの後、マドゥマク虐殺事件バーチャルミュージアムドキュメンタリー「忘れられない人々」の放映が行われた。ドキュメンタリー「忘れられない人々」はイスティクラルアートギャラリーで7月2日まで11時~17時の間、1時間おきに観覧可能だ。
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翻訳者:伊藤梓子
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