ベイコズに生きる日本人中佐の名前―ユキチ・ツムラ(津村諭吉)通り

2024年08月18日付 Milliyet 紙

暦は第一次世界大戦の時期を示していた。(ロシア革命期の)白軍に支援を与えるためにシベリアに向かった日本軍が、1012人のトルコ軍捕虜と出会ったのだ。トルコ軍を国に連れ帰るために出発した津村諭吉中佐にはありとあらゆる困難がまっていた。その出来事から100年が過ぎてもトルコ人は彼のことを忘れていない。

トルコにある都市、郡、県の地区にはそれぞれ名前がついている。社会にとっての財産となり、忘れたくない、もしくは過ぎ去るような人生を生きたもしくは、生前にその名誉を称えるべきだと考えられた人々に対して、通りに名を冠して再び命を吹き込んでいるのだ。
通りや大通りに対して与えられる名前は、市議会そして為政者たちによって決定される。イスタンブルのベイコズ地区にある津村諭吉中佐通りは、このような物語の一部だ。そこで起こった全ての困難に対峙して、トルコ軍兵士たちを祖国へと連れ戻すために、その身命を賭して取り組んだ、津村氏の涙を誘う自己犠牲の物語である。

■日本軍が一帯を占領してトルコ軍捕虜を発見

暦は第一次世界大戦の頃を示していた。1012人のトルコ人は、家族とともにロシア軍の
捕虜となっていた。シベリアの捕虜キャンプで囚われの身となっていたのだ。1921
年の革命の後に赤軍と戦っていた白軍を支援するために向かった日本人たちによって
一帯が占領されていた。日本軍に占領されたのち、シベリアにいたトルコ軍捕虜は日本の統制下に置かれた。

「オスマン帝国は、自国民を再び取り戻すために一連の外交努力を行った。
日本人たちは、トルコ軍、その家族を自国へと送還させるために『平明丸』
の船に任務を与えた。」

1921年2月の終わりごろ、汽船平明丸はウラジオストクを出発した。スエズ運河を通過して地中海にたどり着いた。この行程を、成功裏に通過した平明丸の行く手はレスボス島の沖合に停泊するギリシア王国の海軍艦隊によって封鎖された。ギリシアはアナトリアで続いた戦争のために、捕虜が引き渡されるのを防ごうと、トルコ人捕虜を手に入れようとした。しかしなが平明丸の艦長、津村諭吉は、この捕虜たちが日本の監視下に置かれていると伝えあらゆる圧力に関わらずトルコ人捕虜、そしてその家族を引き渡すことはなかった。

■6ヶ月間をピレウスで7ヶ月間をアジナーラ島で待ち続けた

船は、ギリシアのピレウス市のピレウス港から引き上げた。6ヶ月間に渡り船から降りて保存食を得ることさえも許されなかったのだ。全ての脅しのために行われた行為にも関わらず、津村中尉は、諦めなかった。捕虜たちがもともといた、土地にたどり着くための決意は揺るぐことがなかった。何ヶ月にも及ぶ待機の後、国際連盟は、この事件に着手して船にいる395人の女性、そして子どもたちの解放を要求した。この事件に、イタリアが仲介者となり、捕虜たちはイタリアに引き渡されたそしてアジナーラ島でのプロセスが始まった。

アジナーラ島で、更に7ヶ月滞在した後に、イスタンブル政府は捕虜となった
1012人の兵士たちが、再び軍に参加しないという誓いを立て、1922年に1012人の兵士は、「希望」という名前のトルコ艦隊によって、オスマン帝国へと
明け渡された。

トルコ軍捕虜をシベリアから連れ戻しその航海の間決して手放すことのなかった艦長の津村諭吉のその職務における忠誠心は、人々の口にのぼり、語り草となった。捕虜となった軍人たちを国へと帰還させるために困難のともなう航海を遂行した津村中尉の軌跡は忘れられることがなかった。2019年に日本を訪れた際に、トルコと日本の関係性を説明したレジェプ・タイイプ・エルドアンは、1921年に日本が第一次世界大戦時にロシアの捕虜となった1012人のトルコ人兵士たちそしてトルコにやってきた日本軍人の物語を語った。津村中佐の物語を、ベイコズ区行政の議題に取り上げたのは、ベイコズ区議・イスタンブル広域市議会議員サドゥッラー・ハサンノールであった。ハサンノールは2019年7月1日に、ベイコズ市議会に提出した提案書で、以下のような要求を提示した。

「この日本人軍人は、とてつもない勇敢さを提示しながら
私達軍人を、ギリシアに明け渡さなかった。第一次世界大戦
でロシア軍の捕虜になった1012人を日本の戦艦によって
イスタンブルに帰還させた船の艦長は、津村諭吉中尉である。
わが郡の通りに津村の名前を冠することを、敬意とともに訴えます。」

これを受けて当時のベイコズ区長であるムラト・アイドゥン氏は、ベイコズと日本間の関係性、その友好関係を鑑み日本の軍人の名前をベイコズの通りに対して与える作業を開始した。

「津村中尉の名がベイコズに冠されるのは偶然ではありません。
1970年代に再びイスタンブルのベイコズ地区では、日本の技術的な支援によって
イスタンブル海運水産職業高校が作られました。ちょうど25年に渡って
日本人講師たちがこの高校で授業をおこなったのです。」

■その名はベイコズで生き続ける

この提案は、区議会で承認され、その後この要請はイスタンブル
広域市にもたらされて更に外務大臣にも見解が求められた。

2019年にベイコズ区にある「スポーツ通り」の名前が、「諭吉中佐通り」
として変更されることに、いかなる反論も見られないと述べた。このようにして
津村氏の名前はベイコズのオルタチェシメ地区のスポーツ通りに冠された。

102年前にロシアの捕虜収容所に囚われの身となったトルコ人兵士たちを
国へと帰還させるために、その任務と職位に忠実であり続け、道中に遭遇した全ての困難に対しても屹立していた津村中尉の名前はベイコズ区のオルタチェシメ地区に生きている。


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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:58519