イラン人女性登山家、険しい山に挑む半生を語る|ヒマラヤ登山の回想(1)
2025年10月29日付 Hamshahri 紙

アフサーネ・ヘサーミーファルド氏は、本紙インターネットテレビに出演し、≪シールバード≫から≪チョ・オユー≫に至る自身の登山について語った。
(ハムシャフリー電子版−セイイェデ・ザフラー・アッバースィー記者)メフル月の下旬[西暦:2025年10月中旬]に登山・スポーツクライミング連盟は次のように発表した。「アフサーネ・ヘサーミーファルド氏がチベットのチョ・オユーの登頂に成功した。今回の登頂によって世界の全8,000メートル峰に登頂する計画を達成し得た初の女性であり、アズィーム・ゲイチーサーズ氏に次いで8,000m峰登頂者に名を連ねるに至った2人目のイラン人でもある。医者でありヒマラヤ登山家でもあるアフサーネ・ヘサーミーファルド氏は、ラザヴィー・ホラーサーン州のサブゼヴァールで生まれた。同氏は本紙のインターネットテレビの番組に出演し、登山や世界レコード樹立といった自身の経験について語った。
◆登山家としての人生の始まり
イランの歴史を作った女性は自らの登山家人生のプロローグを1376[西暦:1997/98]年の時点から語り始めた。彼女は医学生で、マシュハド市周辺の山々から登山を始めた時のことだ。
「マシュハドで当時私は大学生でした。当初は、週末に郊外へ出かける多くの人たちと同様に、娯楽や散策のために山に行っていました。しかし、私の登山はそのレベルでは終わりませんでした。段々と真剣さを帯びるようになり、様々な気象条件や種々の山面でイランの高山に登り、ついには国際山頂登攀プロジェクトに加わることになりました。8,000メートル峰の登山計画を約3年半前に開始して、そしてついに今年のメフル月[西暦9/23−10/22]に成し遂げることができたのです」
アフサーネ・ヘサーミーファルド氏は初めての登頂だったとして、マシュハド近郊にある標高約3,200メートルのシールバードを紹介した。同氏は次のように説明した。
「1378[西暦1999/2000]年に兄と一緒にこの山頂を登りました。登山を始めた時に兄が共にいてくれたことは、私を勇気づけてくれました」
さまざまな街で暮らしてきた同氏はマルコ・ポーロに例えられることもあり、そのことについて次のように述べた。
「私はサブゼヴァールで生まれ、9歳になるまでその街で生活をしました。9歳から12歳まではゴナーバードに住み、その後はファリーマーン、マシュハド、ゴルガーン、ボジュヌールドへと移り住みました。地理的に見ると、いずれも標高が高い場所ではありません。いつも講演会や教室では、高い峰や高地のない州でどのように登山技術を上達させたのか?と尋ねられます。私が常にテヘランの人たちを羨ましく思うのは、彼ら自身の側に4,000メートル峰が数多くあるからです。私たちの地域では、高くても標高は3,200メートルに留まりますから。このことが私の練習をより困難にしました。氷雪の訓練のためにテヘランやアラムクーフ[注:標高4,828メートルで、イランではダマーヴァンド山に次いで2番目に高い山]に行かなければなりませんでした。しかしながら、私が言いたいのはこのように地理的に限られた条件の下でも不可能なことは何もなく、ひたすら意欲を持って努力をするとともにその代償を払う覚悟があれば良いということです。私にとってその代償とは、移動により多くの時間がかかることでした」
―(2)に続く―
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翻訳者:MA
記事ID:61124